06:淡緑の軌跡を描いて
堰が切れたかのように、凄まじい量の魔力がどっとエリノアから溢れ出した。
絶え間なく流れ出る魔力の奔流は、空間を広範囲に渡って侵蝕していく。常ならば目に見えぬ筈の魔力そのものが、濃すぎる濃度によって淡い光を帯びて視認できるものとなっていた。
ゆえにその魔力は光の奔流とも見てとれた。
その光は、かの『災厄の日』に舞い降りた光の雫と同じ薄黄緑の色を宿し、螺旋を描いていく。
魔力の吸収と、魔力の大流出。
その二種の波が襲った空間は、中心にいた三人以外、恐らく誰一人として生きてはいまい。そこかしこに転がった木乃伊のような亡骸は、確かに同胞だった兵士達のものなのにも関わらず、荒れ狂う魔力の渦を見ながら、ふふっとヴィクトールが軽やかに笑った。
「この力があれば、如何なる国であろうとも、この国には手を出せないさ」
確信をもって、満足げに一人頷く。
けれど一歩前に踏み出そうとしたヴィクトールの表情が歪み、数歩後退る。
「これ以上は近づくのは、今は未だ無理、か」
魔力の吸収と流出の両方に耐えられる魔力防壁を巡らせているが、如何せん万能のものではない。吸収、もしくは流出の威力が高過ぎるのだろうために、防壁の力が悲鳴を上げたのだ。
まあ構わないか、と間もなく終息するであろう力の流れをヴィクトールは見守っていた。
エリノアの目から見えている世界は酷く歪んでいた。
星月は魔法の光に紛れ引き伸ばされて夜に滲み、夜空と大地は捩れて軋み境界線を失ったまま、光と藍と茶が螺旋を描いていた。
その中で見得たのは、夜よりも尚暗き黒色。そこに覗く紅の煌めきだけ。
それも焦点は定まらず、距離感も掴めずただ視線の先に在るということしか分からない。
平衡感覚などとうに消え失せ、自分の足が地についているのか、倒れているのかすら、エリノアにはもう分からなかった。けれど体や指先の感覚などは欠片ほども残っていない気がするのに、不思議なことに溢れ流れ出る魔力だけは光による視覚によるものではなく、感覚として認識できている。
ああ、と声無き声でエリノアは嗚咽を洩らした。
高濃度の魔力は人を蝕み、命を奪う。
それをエリノアは嫌という程知っている。
自分の責任ではなかったが、齎されたその力でもって、故郷を失うことになったのだから。
その力が今止め処なく、自分の内側から溢れ出ているのだ。
人を護りたいと思った人間が、人の命を、生き物の命を無差別に奪う力を撒き散らしている。
なんて矛盾に満ちた、無様で滑稽な話だろう。
手探るように空を薙いだエリノアが零す涙は、魔力の光に溶けて舞い消えていく。
エリノアの姿は傍目から見れば、酷く傾いだ体勢で、足を引き摺りながらレオナルトらしき異形に近づいていく、歪なものだった。
共に死を望むために彼を求めたのか、助けるべくして求めたのか、どちらなのかは分からない。少なくとも、彼の元に行くことで勝算が得られると思ったわけではないことは確かだ。
「れ、お……」
掠れた声、震える唇で少女は青年の名を呼ぶ。
牙を覗かせた唇が微かに動く。見間違いでなければ紡がれた言葉は。
「……エリィ」
もう一度。今度はしっかりと青年はエリノアの名を呼んだ。
紅の瞳が自分を見た気がしたのは見間違いではなく。自分の名を呼んだ声は紛れもなくレオナルトの、それ。
――ああ、レオの意識が残っていて良かった。
胸を撫で下ろすには最悪に近い状況まで追い込まれているというのに、そればかりは安堵できた。けれど喜びの感情よりも負い目が勝り、結局嗚咽と謝罪の言葉ばかりが零れ出る。
「ごめ、ん、なさ……私が、巻き込ん……だの、ね」
ぼろぼろと溢れる涙は、零れる先から魔力に溶けて光と共に霧散していく。
ごめんなさい。
貴方と出会わなければ良かったのかもしれない。
人ではないモノに変えられて、『兵器』と呼ばれ、其処に在るだけで意思に関わらず人を殺す道具にされるだなんて。
自分の命すら掛けて、あれ程平和を願っていた貴方なのに。
溢れ出る魔力の奔流を伴いながら、エリノアが震える手を伸ばす。
そこに在る命と魔力を根こそぎ喰らいつくしながら、レオナルトもまたその右手を力無く伸ばす。
指先が、触れる。
その指先を手繰り、指が絡み。
「俺の方こそ、止められなくて、すまない」
紅と青灰の目を伏せて言うレオナルトに、エリノアはふるふるとぎこちなく首を横に振った。それに合わせて涙の光が残滓を描く。
あれ程願い伸ばしても届かなかった手が、繋ぎたかった手が、今更こんな場所で、こんな状況になって、ようやく届き繋がるだなんて、なんという皮肉だろう。
「わ、たし、も……止め、ら……れ、なかっ……」
手を絡め、レオナルトが腕を引いて互いの体を引き寄せ、唇を重ねた。
真逆の流れをもつ魔力は、その中心にいる人間の意思に関わらず、反駁し合い、絡み合い、周囲に暴風とそれに伴った砂塵を巻き起こしていく。
代わりに、溶けた涙は光となって螺旋を描き二人を取り巻いた。
「泣くな」
人の形を残した右腕は、少女の涙を拭う代わりにきつく抱きしめ、そして。
「エリィのお陰でまだ、動ける」
つい先程までは、その双眸は意識すら希薄に見えていた。けれど今、細められた紅と青灰の瞳には、熱が宿ったように見える。剥いた牙に見えるのは獰猛さではなく、消えかけていた決意であり、信念への執着であり、抗うための意志だ。
体が僅かに沈む。
「まだ、終わっていない」
次の瞬間、ふわりと体が浮いた気がした。
同時に不規則に渦巻いていた風が、一瞬だけ一方向へと頬を撫でる。
軽い衝撃と振動。
「が、はっ……」
微かに届いた肉を断つ音。
一跳びでレオナルトは彼我の距離を詰めていた。
背後から微かに香る匂いに、エリノアには覚えがあった。この魔力の香りを知っている。
ああ、ともう一滴、涙が零れる。
背中に触れたのは、ずっと追ってきた人の体。
自分の脇腹の下を潜ったレオナルトの左腕は――その先に伸びた鋭い爪は、エリノアの背後の立つ、かの人の――ヴィクトールの胸を貫き深く沈んでいた。
ごめんなさい。貴方に業を背負わせて。
ごめんなさい。貴方を引き戻せなくて。
もうこれ以上誰も傷つけないで。
だから、もう、これで終わりにしよう。
エリノアの擡げた右手が、彷徨うように宙を掻き、すぐに一点で動きを止めた。右手を当てた場所にあったのは、ヴィクトールが展開している魔力防壁の小さな綻び。
掠れる声で紡いだ魔法は至極簡単なものだ。けれど、今はそれで充分。
「空の歪み、解け――<魔力解除>」
魔力で紡がれた防壁が、瞬く間に解かれていくのが手に取るように分かる。
直後、ごふ、と噎せ返る音。
「く、ふ……やってくれ、た……」
血の塊を吐くヴィクトールが、恨みがましい視線を二人に向けていた。
言葉を続けようと開いた口は音のない言葉を刻み、けれどそれが音になることはなく。頬を引き攣らせたまま、その体がゆっくりと沈む。
術者が消えたことで魔力の波の反応は次第に弱まりつつあった。
そして反発し合う魔力の流れは、その反発の力さえ飽和し――ぎぃんと耳障りな音共に世界を大きく軋ませた後。
溶け合うように魔力の渦が、次第に消え、世界に溶けていった。




