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月の雫  作者: 空雛あさき
第5章 零れ落ちる月暈の雫
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05:黒と紅に望むのは

 言葉にならない少女の悲鳴が、夜を切り裂き迸る。

 呼吸さえもままならないエリノアの周囲は、魔法の発動と共に一変した。

 魔力の波が広範囲から押し寄せ、舞い上がった土煙が収まった後。そこから見得たのは枯れた世界。

 魔導士だからこそ肌で感じる、消失した力。

 魔力を凄まじい勢いで根こそぎ吸い取りながら奔った風は、レオナルトへと収束していった。彼がその吸い取った魔力全てを吸収しているのだ。

 しかも、その魔力を収束する力は今尚勢いが止まらない。


 魔力の波の発生源にいたレオナルトの姿もまた、激変していた。

 肩が微かな呼吸に合わせて上下しているのだから、生きてはいるのだろう。兵器として運用するというならば殺しはするまい、というささやかな期待は抱いていた。が、ヴィクトールの思惑通りに事が運ぶのであれば、そこにレオナルトの意思が残されるかどうかまでは、望みは果てしなく薄い。

 膝をついたその体は、概ね確かにレオナルトのものではあった。大腿部に突き立てられていた剣は二つにへし折られ、体の傍に転がっている。

 前髪のひと房を除き、銀灰色だった髪が塗り潰されたような黒に変じていたのは気になったが、それ以上に、とても人間のものとは思えない異様な形状が目立った。

 頭部に突き出た二本の角。黒い鱗に覆われた尖った両耳。

 体を支える左腕は人のものより幾分太く骨ばっており、耳と同様の黒い鱗に覆われている。辛うじて人の形を保っているものの、それはまるで――

「まるでドラゴンの、よう……」

 ゆらりとレオナルトが顔をあげる。薄ら開かれた瞳――その左目だけが見覚えのある鮮烈な紅に染まっている。左顔面を覆うのは黒い鱗で、口の端から鋭い牙が覗いている。

 唇が動き、何事かを呟く。

 けれどその言葉は、音は、エリノアの耳までには届かなかった。

 呆然と彼の姿を見つめるエリノアに、外套(コート)の裾をはためかせながらヴィクトールが近づいた。

 眩暈と吐き気、震えは未だ収まらず、視界が揺れる中で、エリノアは這うように体を前進させる。


 見目などどうでも良かった。

 言った通りなのだ。

 レオナルトがレオナルトの心の侭でいてくれるなら、それだけで――


 月光に照らされ落ちた影に、エリノアは蒼白な貌で影の主――義兄を仰ぎ見た。

 ヴィクトールはにこやかに義妹を見下ろす。

「どうしてこの中で、エリノアだけがなんの対策もなしに生き残れたと思う?」

 教師のような問いに、エリノアは荒い呼吸と定まらない視線を返す。

「僕が彼だけを手段にしようとしていただなんて思った?」

 苦笑して、視線を近づけるように身を屈める。

 気づけばエリノアを押し潰すような重力魔法は消えていた。魔力を収束する力の波が、その魔法すら魔力ごと吸収し掻き消したのだろう。だからこそエリノアは這ってでも動くことができたのだ。けれどその中でヴィクトールが魔力の防壁をどうやって維持しているのかなど想像がつかない。

 彼は自分「だけ」を包むように、淡い光を纏った繭のような魔力防壁を展開していた。

 魔力の波の範囲内にあった人は枯れた死体となり、植物もまた全て干からびている。

 魔力防壁を展開していた義兄と、魔力吸収の源となったレオナルトはともかく、間違いなくその効果範囲内にいたエリノアが、何故、その身一つで無事でいられるのか。

 深く思考する余裕のない虚ろなはしばみの瞳を見下ろして、ヴィクトールは少女の頬に指を這わせた。


 連綿と続く脅威の隣国・リムデルヴァ。

 東に接するロートテルノー公国、南に接するティスレイン諸国連合とは長らく友好関係にあるのだから、かの国、敵を全て滅ぼせば、この国に安寧は齎される。

 その安寧こそがヴィクトールの幼い頃から抱いていた目標であり、受け継がれた意志でもあった。

 凄まじい威力の破壊兵器を要するともなれば、その兵器、もしくは脅威となる国そのものを排除しようという動きも見られるかもしれない。が、既に両国への根回しも万端だ。


 す、と伸ばした手がエリノアの頬を優しくなぞる。薄い膜を通して触れられているように感じるのは、魔力防壁の効果によるものだろうか。

「大切なエリノア。身を挺してでも今まで守ってきた甲斐があったよ」

 守ってきた。守られてきた。

 それは間違いない事実。

 ただそれがどういう意図の下であったか、エリノアが気づいていなかっただけだ。

「今まで飲んでいた香茶もね、このための準備の一環だったんだ」

「え……」

 呆けたような声が零れ落ちた。と同時に血が口腔から溢れ出た。

 鉄錆の味に塗れた今でも、保護されてから毎日欠かさずに飲んでいたヴィクトール特製ブレンドの香茶の味を思い出せる。

 それだけ、日々口にしてきたものだ。どれだけ口にしたのかなど覚えていない。数えようと思ったことすらなかった。

(あれが、この計画の一環……?)

 真っ赤に染まった口元は、最早まともに言葉を紡ぐのが難しい。ぼんやりとした思考の裏側で疑問に思うも、鸚鵡返しのようなそれにヴィクトールが気づく筈もない。

「あの香茶は暁撫子が含まれたものでね。暁撫子の成分を君の体と魔力に定着させ、月光石と親和力を高めるためだったんだ」

 柔らかに、そして達成感に満ちた、恍惚とした表情でヴィクトールが笑う。

「あの村の汚染実験は上手くいった。君が生き残ったのは偶然だったけれど、お陰で研究もかなり前進した。本当に君のお陰だよ」

 エリノアの故郷を奪った、かの『バルムリーズ魔力汚染事件』。

 当時ヴィクトールはまだ十八歳だったが、そもそもこの兵器開発の計画はかの事件よりもずっと以前から始まっていたのだ。

 国の安寧を得るという志は、かつてヴィクトールを導いてくれた先達によるものだった。が、開発の発案から極秘裏に続けられた研究、そして計画を推し進めたのは、士官学校を卒業する前から魔導研究部門に入り浸っていたヴィクトール本人の手腕によるものだ。魔力汚染事件を意図的に引き起こし、偽装工作まで行ったのもまた、当時のヴィクトール自身の指示によるものだった。

 そして瀕死状態でありながらも生き残ったエリノアを見つけたとき、計画は大きく前進したのだ。


 保護した後は彼女を自分で引き取り、出来る限り自分の目の届く範囲に置いておいた。事実を歪めて伝え、飲ませ続けた香茶は、年月をかけて暁撫子の成分を少女の体と魔力に沁みこませ、今こうして功を奏している。香茶を飲ませ始めた当初は、効果が出るとは断定出来なかった。だが投与を続ける内に、変化ははっきりと数値になって現れていた。

 暁撫子の成分と月光石の親和性が非常に高いことが、研究部門の中でさえほとんど知られていないことも実験を進めるにあたり幸いした。

「実験は成功だった。今の、彼らの融合時に、その身一つで君が生き残れたことが一つの証明だよ。そして更に段階はもう一つ進む」

 だからね。本命は、最初から君の方なんだよ。

 屈託ない笑みを浮かべて、ヴィクトールは立ち上がる。

 今から始めるものこそが、長年研究してきたものを形となす仕上げの魔法だ。

「本当にありがとう。エリノアのお陰だよ」

 口から出るのは偽りなき、心からの感謝の言葉。

 端麗な顔に浮かぶのは、大業がなせる歓喜の笑み。

 義兄の声から容易に想像がついた。想像がついてしまったことが悲しかった。

 変わってしまったのか。それとも初めから歪んでいたのか。

 少なくとも、もう、義兄に自分の言葉は何一つ届かない。

 過ごした日々は過去でしかなく、過去の記憶はエリノアの思い出ではあるが、ヴィクトールにとってはなんということはない「被検体との記憶」でしかない。

 義兄に畏敬の念を抱き、その背を追い、日夜努力してきた自分は、一体何を目指していたのだろう。

 命の恩人であり、支え護ろうと願った人は、実はエリノアからささやかな幸せと日常を奪い取った人間で、今や自分を糧に人を大量に殺し尽くす兵器を作ろうとしている。

 願いは無意味で、存在は破滅を齎している。

 滑稽なことこの上ない。

 自嘲するように、エリノアは微かに口の端を上げた。引き攣ったような笑みを浮かべながら、地面に爪を立て、体を前に引き摺り出す。

(今の私に、できること。今の私にしか、できないこと)

 歪んだ義兄を振り返らずに、右手一本で体を前へと進めていく。

 押さえつける重力魔法が掻き消えた今、エリノアを縛るものはない。とはいえ、今尚エリノアの体に存在する魔力も限りなく吸い取られ続け、全身ががくがくと震えている。

 そうでなかったとしても既に全身に深手を負っており、元々まともに歩ける状態ではなかった。

 エリノアは這うように、動けぬままのレオナルトとの距離を縮めていく。

「レ、オ……」

 近づけば近づくほど、魔力吸収の力が大きくなっていくのが分かる。

 ゆえに荒れ狂うエリノアの体に存在する魔力も恐ろしい勢いで吸い取られていた。全身が絶え間なく震え、四肢に力が入らないのもそのせいだ。只人であれば、此処にいるのは傷ついた自分ではなく、干からびた物言わぬ骸だった筈だ。

「往生際が悪いね。それとも恋ゆえに心中したいとか」

 くつくつと笑いながら、ヴィクトールは悠然とエリノアの後を追う。

 所詮這いずる人間と颯爽と歩を進められる人間とでは、その間の距離など瞬く間に縮められる。ヴィクトールはエリノアの後ろに立つと、躊躇いなくその頭を右手で鷲掴みにし、力場を形成し、魔導構造を構築していく。

「が、あ……!」

 力任せに掴まれた痛みと臓腑に与えられた振動に、ごぽりと血の塊を吐き出して、エリノアは苦痛に顔を歪ませた。だからといって、ヴィクトールの手が緩む事もない。エリノアの苦悶の声など最早ヴィクトールにとってはどうでも良いことなのだ。

 構わず、同時に紡がれる言葉の羅列は、エリノアには聞き覚えのないものばかり。

 ただ、その言葉が一つ紡がれる毎に、体中を駆け巡る魔力の波が激しさを増していく。

「あああ……」

 震え、呻くようなエリノアの声に、レオナルトが微かに反応を示した。そんな気がした。

 本当のところどうだったのかは、エリノアには分からない。体の震えが大きくなり、視界が撓み、歪み、揺れて、かすかな色しか見えなかったから。耳に響くのは脳内を巡る血流の音ばかり。

 エリノアは、内から溢れ続ける魔力に翻弄されていた。

 詠唱が如何なものだったのか、発動の言葉が如何なものだったのか――どれ程の時間を要したのか。

 何も分からなかった。

 ただ、ヴィクトールに投げ捨てられ、地面の上で一度跳ねて転がった。その衝撃だけが、認識できた。

 しかしそれは同時に、ヴィクトールの魔法が完成し発動したということも示す。

 投げ出された体は四肢どころか、体中の全ての組織が細分化されて飛び散りそうな感覚と痛みを伴っていた。

 喉が張り裂けんばかりの悲鳴が、夜の空に響き渡る。


「ああ、ああああああああああああ」


 魔力の暴走が、始まった。

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