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月の雫  作者: 空雛あさき
第5章 零れ落ちる月暈の雫
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04:嵐の中で月が哂う

 乗ってきた馬は、ダニエルの指示で野営地に入る前に捨てた。

 そのダニエルも今はもう傍にいない。「人の注意は引いてやるから、後はお前次第だな」と言って姿を晦ませた。その後間もなくして遠くで騒がしさが増し、エリノアの潜んでいた辺りは手薄になったから、ダニエルは仕事をしてくれたのだろう。

 だがそもそも捕らえられた人間二人が脱走し、手引きされた騒ぎが各所で勃発し、挙句脱走した内の一人――レオナルトが戻ってきたことで、更に騒ぎは大きくなっていたようだった。

 戻ってきた際に激しく抵抗しただの、斬られただのという兵士達の話を、途中エリノアは小耳に挟むことができた。

 今の自分の状況と同じだったわけか、と荒い息の陰でエリノアは思う。

 野営地に入って暫くは、血と包帯を隠すために肩に羽織った、ダニエルの軍服を翻しながら概ね堂々と駆けてきた。ダニエル曰く、「元々ここの軍人なのだから堂々としていた方が目立たない」とのことだったのだが。多少の効果はあったものの、同様に軍服を身につけ舞い戻ったレオナルトという前例がいた為に、侵入はすぐさま露見してしまった。まあ、無いよりはあった方がマシといった程度だが、確かに多少距離は稼げたように思う。


 左右からばらばらに突っ込んで来る兵士達をそれぞれ視界に収めて、エリノアはすっと身を沈めた。

(一度で避けられる)

 左から来た刃を躱し、右から来た刃は短剣で受け流して軌道を逸らし、前に出る。逸れた刃が右足を浅く薙ぎ、痒みにも似た痛みに僅かに顔を顰めながらも、風の魔法で纏めて跳ね飛ばした。

 おかしなところに頭を打ちつけたりしない限り、命に別状はないだろう――野営地内での戦闘において、エリノアは今のように主にその魔法と剣技だけで凌いできた。

 出来るだけ同僚に怪我はさせたくないが、エリノアは自分に膂力が足りないことを自覚している。同年代の女性と比べれば遥かに勝るだろうが、相手をするのは充分に成長した力のある男性が多く、自分より遥かに技量の勝る人間も多い。

 ゆえに、受け流すための剣技と、足を止めさせるための風の魔法だった。使う魔法は元々防御系統のものであり、風の単一属性であるためエリノアとは非常に相性が良い。単純な指向性を持たせるだけで済むことも相俟って、連発し易いという利点がある。ただ詠唱の時間は少なからず必要になるので、結局のところ相手の攻撃を受け流すためにも剣も捨てられなかった。

 その上、魔法を扱えない兵士が相手であればその戦法は通用するものの、稀に魔法を扱える者や魔導部隊所属の者と出遭ってしまえば、途端に魔法に重きを置いた戦いにシフトせざるを得ない。

 エリノアにとっては、魔法を扱える者との相対が一番避けたい状況だった。先程魔導部隊の一班と遭遇したときに無理に突破したせいで、体のあちらこちらに被弾している。ただ、双方に躊躇いが残されていたからこそ、エリノアはそこで死なずに済み、けれど氷の槍で左の上腕の肉をごっそりと抉られる破目になったのだが。

 傷口は魔法で咄嗟に止血したが、魔法で貼った目に見えない薄い膜から血がじわじわと滲み出している。肉が削げ落ちる程の怪我なので、その程度の出血で抑えられているのが幸いではあるのだが――それでも上がらない左腕は、もう使い物にはなりそうになかった。

 最初の逃亡の際に受けた肩の傷の辺りにも、じくじくとした痛みが纏わりついたままだ。

「…………」

 闇に紛れて物陰に滑りこむと、ふらついた足元にふと視線を落とす。

 出血のせいだろうか。全身が酷く重く感じる。

(もう少し。きっともう、レオは義兄さんのところに辿り着いてる)

 積まれた木箱に手をついて、よろめく身体を支え数度瞬く。

 彼は、彼らは今、何を話しているのだろう。何をしているのだろう。

「急がなければ……」

 話し合いで済む筈がない。それで済むのであれば、こんな状況にはなっていないのだから。

 顎から滴り落ちる冷たい汗を乱暴に右手の甲で拭い、深呼吸して顔を上げる。

 再び駆け出そうとしたとき、ふと、唸るような風の音が耳を掠めた気がした。

 次の瞬間、吹きつけた突風に煽られると同時に、エリノアは激しい痛みを覚え胸を押さえて頽くずおれた。




 ヴィクトールのいる場所は凡そ見当がついていた。

 それは突風が吹いてきた方向と一致する。

 胸を押さえ、かふ、と軽く咳き込むと途端に口の中に鉄錆の味が満ちた。

 先程の突風が吹いた時から、エリノアの体の変調は顕著になっていた。ドラゴンと相対したときと似た症状が出ている。

 魔力が体の中を暴れ、駆け巡り、体内をぐちゃぐちゃにかき混ぜるような感覚。挙句、血管を食い破り、皮膚を切り裂いて飛び散っていきそうにすら感じる。

 強烈な不快感と眩暈、吐き気が一気に押し寄せ、痙攣は止まらない。

 あの時と異なるのは、そうした現象が自分に「だけ」起こっているということだ。

 氷槍で抉られた傷が更に痛みを増す。最早指先の感覚どころか、腕に棒が一本ぶら下がっているぐらいの感覚しか残っていない。

 浅く薙いでいただけだった筈の右脚の感覚までもが麻痺し始め、エリノアは脚を引き摺るようにして風が吹いてきた方――見覚えのある黒い影が羽ばたく場所へ歩いていく。

 近づくと、次第にその影の下に、二人の人の姿が見てとれた。

 息を呑み、掠れかけた声でエリノアは地に伏した人影の名を呼んだ。

「レオ……!」

 エリノアの痛切な叫び声に、ヴィクトールが振り返る。

 爆風ほどの突風でもって崩壊した幕舎。倒れた人もいる。その中央で、背後に黒の巨躯――ブラックドラゴンを従えるようにして立っていたヴィクトールの顔には、一瞬驚きが浮かび、すぐに場違いな程楽しげな笑みへと変わった。

 微かにレオナルトが身動ぎするが、体を起こすまでには至らない。流れ出た血が、倒れたレオナルトの周囲を赤く染めている。脇腹がしとど濡れ、地に縫い止めるかのように大腿部に剣が突き立てられていた。動かないというよりは、動けないのだろう。エリノアの叫びがその耳に届いたかどうかも定かではない。

 しかし、彼をそんな状態に追い込んだであろうヴィクトールの、ああ、という吐息はやはりいつもと変わらぬように見える義兄のそれ。

「良かった。来てくれたんだね」

 朗らかで、爽やかで眩しい――いつも皆へ、自分へと向ける笑みと変わらないもの。

 だから余計に恐ろしかった。

 この状況下でそんな笑みを浮かべていられることが。

「にいさ――」

 これ以上レオナルトに何かされる前に、彼を庇うように、エリノアは二人の間に割り込もうとしたが、しかし。

「――<重架の領域グラヴィクルス・サート>」

 義兄を呼ぶ声は、がくんとエリノアの体が崩れ落ちることで寸断された。

「ひっ……」

 崩れ落ちた体は地面に這い蹲るように押し潰されていた。

 みしりと骨が軋んだ。肺が押し潰され、空気を求めて力無く喘ぐ。

 何かに圧し潰されたかのように――否、エリノアを中心とした狭い円形状の範囲がまるごとその空間を圧し潰していた。その範囲を示すように、踏み固められていた筈の地面が大きく凹んでいる。

 うつ伏せに倒れたエリノアは僅かに頭をもたげ、抗うように呻く。

「今取り込み中でね、少し待っていてくれないかい。次は君の番だから」

 義妹の呼びかけですら容赦なく、重力魔法でヴィクトールは遮った。その上で、やはり笑みを崩さないまま窘めるように告げる言葉は、疑問の形をとっていながら、その実、決定事項であることを暗に示していた。

「に……さん、こ、れは……」

「兵器の開発の仕上げだよ」

 息も絶え絶えのエリノアの問いに、ヴィクトールは何ということもないようにさらりと答える。

 ――ああ。

 エリノアは鮮血に濡れた唇をきつく噛む。

 今の今まで、どこかでその可能性を否定したがっていた自分がいたけれど、義兄自らの言葉で否定の意味など消え失せた。

 ずっと、何かの間違いであると、そう思ったまま義兄を信じていたかった。

 結局それはエリノアの勝手な思い込みでしかなかったのだ。

 義兄が自分を裏切ったのか。それとも自分が義兄を見誤っていたのか。

 きつく睨んだはしばみの瞳を、エリノアは義兄に向ける。

「代わりに、わた、し……使えば、いいじゃ、ない」

 せめてレオナルトではなく、自分を使ってくれたなら。自分を犠牲にすることをレオナルトがどう思うかどうかはともかくとして、その方が未来にとって良い道筋が出来るだろうに。

 けれどヴィクトールは驚いたように目を瞬かせたあと、苦笑を浮かべて首を横に振った。

「この場合はね、アルムスター少佐である必要があるんだ」

 だから君では代わりにならないんだよ、と。

「じゃあ、な、んで……レオ、を」

 そこでおや、と気づいたようにレオナルトとエリノアを交互に見遣って、肩越しにエリノアを振り返る。

「そうか。君はまだ聞いていなかったんだね。アルムスター少佐を選んだのは、彼がドラゴンの血を受け継いだ人間だからだよ」

 小さく肩を竦めたヴィクトールの話は、初めて聞くものだった。

 ぎこちなくとレオナルトへと首を巡らすと、ようやく上半身だけを起こしたレオナルトがヴィクトールを見据えたまま吐き棄てる。

「俺に……ドラゴンの血が、混じっているからといって、なんだと……いうんだ」

 お伽噺として語られる、ドラゴンと人との恋物語。詳細は違えども、大体がドラゴンと人間の娘が出会い、恋をし、障害を乗り越え結ばれた――という、そんな話だったとエリノアは記憶している。

 それがレオナルトに言わせればただのお伽噺ではなく、事実を元にして伝えられた話であり、レオナルトの家に伝わる遠い祖先の話なのだという。

「継がれた血など、ほんの、微々たるものだろうに……それに固執してまで、兵器を完成させたいのか」

「そうだね。ほんの僅かな、名残のようなものでしかない」

 ヴィクトールは血の薄さをあっさりと認め、頷いた。

「けれどそれで充分なんだ。僕の知り得る限りでは、僕が必要としている分に事足りる程最も血が濃いのさ。そして僕はその血をもつ君が必要で、兵器を完成させたいという意志に変わりはないんだよ」

 言葉の合間合間に、ヴィクトールは幾つかの魔法を細かく展開している。時々現れる現象の内、エリノアが知るものもあれば、見たこともないものも含まれていた。

「それに、君はエリノアにひた隠しにしてきたじゃないか」

 ヴィクトールの受け答えは、片手間にできる戯れのようなものなのだろう。くすりと笑みさえ零す余裕があるらしい。

「言う、必要性、は……なかった、だろうが」

「黙っている必然性もなかったんじゃないかな? 世間の目を気にして言わなかったのかな? それとも、彼女に知られることが怖かった?」

「…………」

 事実、世間には元より、エリノアに知られることも、レオナルトにとっては出来れば避けたい話だった。

 ドラゴンが畏怖される対象であることは知っている。

 尚且つ、エリノアはその恐ろしさを身をもって知っている。

 レオナルトはエリノアを信じていないわけではなかった。言えば、きっと受け入れてくれるのだろうと、いつかは言おうと思っていた。けれど、ドラゴンの捕獲の際における激戦を経た直後のエリノアに、どう伝えれば良かったというのだろう。挙句、他人からその話を暴露され、彼の言う言葉に返す言葉もない。

「だから……だから、なんだって、いう……の、よ」

 震える声を絞り出し、エリノアがヴィクトールを睨みつける。

「ドラゴンの血が流れて、いるくらい、何よ。レオは、レオよ。それに……」

 突き立てるように、爪を、指先を地面に食い込ませて体を支え、顔を上げる。

 血脈など欠片も関係ない。ただ、レオナルトがレオナルトの心のままでいてくれるなら、それだけでエリノアにとっては充分だ。

「私は、私が……レオの、ことを、好きな気持ちに、変わりはないわ……!」

 血を吐くような叫び――事実、吐いた血で口元を赤く濡らしたまま、エリノアが声を振り絞った。

 レオナルトが顔を上げ瞠目する傍ら、振り絞った叫びにヴィクトールは僅かに煩わしげに目を細め、小さく何かを呟く。

 その言葉ははっきりとは聞こえなかったが、次の瞬間――エリノアの体が大きく跳ねる。

「あ、あああああ……」

 どくん、と心臓も大きく跳ねた。

 堰を切ったように、エリノアの魔力が溢れ出していくのがエリノア自身にもよく分かった。同時に周囲を濃密な魔力で侵していく感触さえ、手に取るように分かる。

「エリィ!!」

 虚脱しながら、内部は掻き回されているような感覚にエリノアが超重力下でもがき苦しむ。けれどその姿などヴィクトールは全く興味がないらしい。きちんと思うように魔法が発動したことを確認しただけで、エリノアを呼ぶレオナルトへと視線を転じたヴィクトールは、慣れた要領で右のてのひらの上に魔力構造を発生させた。しかし詠唱と共に通常は術者の脳内に作られる筈の魔導構造が、目の前のレオナルトの体を取り巻くように展開されていく。

 それとほぼ同じ形の模様――魔導構造は、ヴィクトールの後背に浮かぶドラゴンの周囲にも顕現した。操られたままのドラゴンはやはり虚ろな眼差しのまま、何にも興味を示さない。

 詠唱が進むにつれ、魔導構造はその環を広げ、複雑さを増し、淡く緑がかった金色の光を帯び、更にはその光を強めていく。


 ヴィクトールの端整な口の端が吊り上がる。その口は未だに耐えることなく詠唱を紡ぎ続けていた。

 そして左手である種の魔法を発動させた状態で、右手で組み立てた魔法も発動させる。どうやら右手の魔法がレオナルトとブラックドラゴンの周囲に顕現した魔導構造と関係していたらしい。

 発動と同時に、夜闇と光の模様に溶けるように、ドラゴンの姿が徐々に薄まり、模様が中心に凝縮されていく。同時にレオナルトの方では、その全身を闇のような靄が覆いつつあった。その靄は次第に濃さを増し、全身が闇と同化したかのように見えたとき。

 ドラゴンを呼んだときとは比べ物にならない強さの風と、それ以上の魔力の波が津波のようにレオナルトへと収束し、弾けた。

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