03:零れ落ちたものとは
「義兄さん」
「目を覚ましたんだね」
少女の掠れた呼びかけに、ヴィクトールの気遣わしげな表情の中に笑みが混じった。
外套に身を包んだまま足早に簡易寝台へと歩み寄ると、エリノアの顔を覗き込んで、端整な顔が、ふ、と安堵したように笑みを深める。
エリノアにとっては、夢で見た、幼い頃に縋った手の持ち主。今は、支えになりたいと思う人。
懐かしく思えた碧玉の瞳と己の瞳がかち合えば、過去の記憶と先程の夢が交錯しながら脳裏に甦る。
エリノアのまだ青白い貌ながらも笑みが浮かんだのを認めて、ヴィクトールも深く安堵の溜息を零す。顔を上げると、その碧玉の視線はレオナルトへと向けられた。
「レオナルトも、エリノアにずっと付き添っていてくれてありがとう」
「え?」
間の抜けた驚きの声が漏れたのは、レオナルトではなくエリノアの口からだった。
(ずっと?)
義兄の言葉にエリノアは弾かれたようにレオナルトへと視線を向ける。が、彼はちらりとエリノアに視線を遣っただけで、すぐに上官へと視線を転じてしまった。
渋面ながら、頬が赤く染まって見えるのは気のせいだろうか。そう見えたというだけで、エリノアの首から顔へと熱が這い登る。
「では、俺はもう戻ります」
レオナルトが重なる手から退いた。離れがたさを物語るかのように指先が手の甲を滑り、離れる。
ぬくもりが遠退く。
縋るように、引き止めるように手を握りたかった。けれど、やはりというべきか手はぴくりとも動かない。
「エリノアも、大事にな」
頬はほんのり赤く見えたが、彼の顔は既にいつもの無表情に戻っていた。瞳に笑みを浮かべていたのが夢だったのかとさえ思える程だ。
「あ……はい」
一瞬の間に逡巡したが、切り出そうとした話は結局続けられなかった。
ヴィクトールが同席している場で出すべきではないと思ったからだ。勿論、ヴィクトール個人にも伝える気にはなれなかった。自分の意志と認識がどうであれ、レオナルトの真意が未だ分からない以上、不用意に疑念を抱かせるようなことは言うべきではないだろう。
では、と一礼して天幕を出て行くのを、エリノアは顔だけ向けて黙然と見送る。
「妬けるねぇ」
「えっ!?」
のんびりとした声が降ってきて、エリノアは背後に回っていた義兄を仰ぎ見た。
「大事な義妹にも、そろそろ気になる相手が出来てもおかしくない年頃だからねぇ」
外套を脱ぎ、椅子の背凭れに掛けると、ヴィクトールは苦笑混じりの顔をエリノアに向ける。
「如何せん、分かりやすいし」
「な、何言って……!? うっ」
反論しようと身を起こしかけたせいか、急激に負担をかけた身体が悲鳴をあげ、呻き声が零れた。
同時に収まりかけていた熱も、首までかっと上ってきた。
「誤魔化さなくても良いのだけどね。とりあえず、それだけ反応出来るのなら安心かな。体の調子はどう?」
くつくつと堪えきれない笑いが零れるヴィクトールに、気付かれていたのかとエリノアは愕然とする。その類の話を少なくとも義兄に相談した覚えはないし、そんな素振りも見せた心算はなかったのだが。義兄は他人の色恋にまで敏いのかと、自然と苦い顔になった。
身内に知られるのはどことなく恥ずかしい。
エリノアとしては、色恋の話にはあまり深く踏み込んでは欲しくなかった。だからヴィクトール自ら話題を逸らしてくれたのは非常にありがたかった。
「体調は……ええと」
誤魔化し半分、気持ちの切り替え半分といったところで声に出し、改めて自分の身体の感覚に意識を集中する。指先、爪先、体の痛み、体の裡で気になる部分を探す。思いの外、首から上は不思議と支障がないようだった。
次に魔力の操作の確認のために、額の上で魔力構造を発生させる。
(あれ……?)
エリノアは内心でふと首を傾げた。
構造の発生までは以前よりスムーズに行えるのだが、魔導構造構築の時点であっさりと構造が瓦解してしまう。魔力の流れがどうにも激しく、抑制が効かないのだ。
組み立てた骨組みが、入れすぎた力でたちまち崩れてしまうような、そんな感じだ。
幼い頃、魔法を教わり始めた頃の不慣れな感覚とも異なる気がした。
「体が重いです。全身がぴくりとも動かなくて。それに……」
感覚を少しでも正確に伝えられるように、エリノアは言葉を探す。
「魔力の流れが制御しにくくなっているような感じです。急流のように流れが速くて勢いが強いというか……」
どう言うのが正しいのだろうか。悩みながら、治療の準備をするヴィクトールへと視線を向けた。
「っ……!!」
呼吸が止まる。
背筋がぞくりと震え、目が見開かれたまま視線が離せなかった。
ヴィクトールの双眸が冷徹に、冷酷に細められ、エリノアに向けられていた。
空気を求めて喘いだ声が、怯えるように震える。
けれど、目の錯覚を願って瞬きをするよりも早く。義兄の顔は極々普通の、妹を気遣う兄の顔に戻っていた。
時間にして、ほんの一瞬、刹那のときのことだった。
「辛かっただろうね。よく頑張ったね」
声の響きにも偽りはないように思う。背筋が寒くなるような怜悧な視線は、気のせいだったのだろうか。
「う、うん。ありがとう、義兄さん…」
それにしてはぞくりとした寒気が残っている気がした。今もまだ心臓が早鐘を打っている。動かない筈の指先が微かに震えているような気すらした。
そんな義妹を知ってか知らずか、ヴィクトールはエリノアの腕に手のひらを押し当てて触診した後、計器を当て数値を計っている。
そのヴィクトールがそういえば、と顔をあげた。そこに、先程の冷たい視線の面影は残っていない。やはりエリノアの見間違いだったのだろうか。
「ティアリ大佐のことは聞いたかい? 惜しい話だよね」
碧玉の瞳を伏せる義兄に、え、とエリノアは声を上げた。
「重傷だけれど、目は覚ましたと」
うん、と一つ頷いてヴィクトールは計器に視線を落とす。話しながらも、その手は休まることがない。傍らの紙にその数値を書き留め、次はエリノアの額に計器を押し当てた。
金属のひんやりとした感触が心地好いが、素直にその感覚に身を任せられない。先程の義兄の冷たい目についても、今のティアリ大佐の話についても、心がざわついたまま次の言葉を待つ。
「目は覚ましたよ。でも、彼は……残念だったね」
「残念って」
「ドラゴン討伐のベテランだったけれど、今後現場に向かうことはないだろうからね。彼だけじゃない。今回の討伐は死者こそ出なかったけれど、もう前線には立つことはできないだろう人は少なくないんだよ」
そう言って、ヴィクトールは心底惜しそうに眉根を寄せる。計器を手に取り、溜息を吐いた。数値を書き留めていたペンを台に置き、エリノアへと向き直る。微笑みは至極穏やかで、結果が結果だけに手放しにというわけにはいかないのだろうが、それでも賞賛の色が見て取れた。
「激戦だったんだね。でも、その中で皆の命を守りきったエリノアはとても素晴らしい働きをしたんだよ」
だけど、と力無く肩を落とした義兄は続ける。
「もっと強い魔法があれば、もっと強い力があれば。僕からも、提供できればこんなことにはならなかったのかなって思ってしまうんだよ。そうは思わないかい?」
ねえ、エリノア、と義兄は同意を求めるように少女を見た。
「力があれば」
しこりのように言葉が胸に残る。
はしばみ色の瞳を瞬かせて悲しげな碧玉の双眸を見つめ返し、エリノアは思う。
もっと強い力があれば。
仲間をちゃんと守ることが出来たのだろうか。
大切なものをもう失くさずに済むのだろうか。
遠いあの日に願った想いを、成せるのだろうか――と。




