02:追う背、繋がれた手
エリノアを助け出した後、物資の補給と報告のために近くのナヴェイン砦を経由して王都へ向かう途中のこと。
襲撃は、紛れも無く、ラグジエント国内での出来事だった。
後に聞いたところによると、此方の編成情報と行程が漏れていたとしか思えない、的確な時機と戦法だったのだという。
エリノアに砦での記憶はない。寝入っているうちに補給を済ませ砦を早々に発ったせいだろう。気づいたのは、爆発音と激しい振動とが馬車を襲ったからだ。荷馬車に作られた簡易寝台の中で目を覚ました少女は、周囲の状況を窺うよりも先に馬車の横転に巻き込まれていた。路肩の草むらへ投げ出され、背中から強かに叩きつけられた衝撃で、痛みと共に意識が覚醒する。
肺から息の塊が叩き出される。
「いっ……!?」
踏み固められた路ではなかったのは幸いだったが、すぐに動くことはままならなかった。魔力汚染と寒さに対しての処置はされてあったものの、食餌を摂ってもいないエリノアの体力は然程回復してはいない。前日まで死に掛けていた、ただの無力な子供だ。
そんな少女には、薄曇りの空さえ遮るように降ってくる、砕けた荷台の木片の雨から逃れることはできなかった。
反射的に身を縮こまらせ、腕で頭を庇う。
木片が白い肌を切り裂き、あるいは突き刺さり、赤い染みが滲んでいく。
「これが生き残りか? どうやら情報は本当だったようだな」
恐怖と痛みで声も出せずに、散乱した荷の間で身を竦ませていたエリノアの頭上から、声がした。見上げれば、横倒しになった荷台を乗り越えてやってこようと足を掛けた男が、自分を見下ろしている。
エリノアを助けに来てくれた者たちは一様に濃紺の軍服を着ていたのに対し、彼は着崩した衣類の上に、革の胸当てをしただけの軽装だった。手に持った剣が、ぶらぶらと揺れている。
吐き棄てるように言った男の目は、つまらない「物」を見るようなそれだった。
「い、いきのこ……私?」
衝撃と傷の痛みで涙の滲んだ目を、うすく瞬かせる。
それに――
(情報って?)
生き残りとは確かにそうなのだろうが、だからといっていきなり吹き飛ばされねばならぬ理由があったのだろうか。少なくとも、見上げた先の男が自分を助けに来てくれた軍人達以上に非友好的な気配を漂わせているのは把握できた。
爆発音。
止まない怒声。
馬車の横転。
これらの混乱は、目の前の男が一因となっているのだとしたら。
エリノアは本能に従い、逃げるように、後ろへと這いずるようにして身動ぎする。が、実際には身を捩ったのと変わらない程度しか動けなかった。
けれど男のもつ剣の尖端がエリノアへ向けられるより先に、突如男が足蹴にしていた荷台が砕け、バランスを崩した男の身体が空を向く。
驚愕の声に重なって、何かを叫ぶ声と、酷く早口で紡がれた声が喧騒の中から耳に届く。
男が荷台の陰に落ちていき、エリノアの視界からその姿が完全に消えたとき。
馬車の陰で重いものが潰れるような音が聞こえ、同時に地面が震えた。
例えるならば果実を圧し潰したような――けれど、土に滲みこみながらも地面の上を滑り馬車の陰から流れ、広がっていくのは、赤い、赤黒い液体だった。
「ひっ……」
濃い鉄錆の臭いと、赤い液体から逃れるように少女はもう一度身動ぎする。だが、やはりその脚に力は入らず身体をまともに起こすこともままならない。
その身体がふわりと抱き起こされ、記憶に新しい香りと優しい温もりに包まれる。
飛来した炎の矢の熱さえ、彼の背に阻まれる。焦げた肉の臭いが鼻をついた。
「もう大丈夫だよ。僕が来たからね」
頬を優しく擽るのは、冬の陽射しのような白金色の髪。
屈んでエリノアを抱きしめてくれていたのは、赤い染みを踏み越え、荷台を迂回して駆け寄ってきたヴィクトールだった。
「痛いのはもう少しだけ我慢していてね。先に――<月篭り>」
労わる言葉を遮り、短い言葉の羅列を経て解き放たれた力強い声は、瞬時に中空に薄い膜を描く。再度、いつの間にか二人を目掛けて飛来していた炎の矢は、エリノアの目の前、中空に描かれた膜に弾かれ、消えた。
見ればヴィクトールとて傷だらけだった。切り裂かれたのは衣類だけではなく、その皮膚までも及んでいたことは、濡れて変色した切り口を見れば一目瞭然だった。エリノアを庇って受けた炎の矢による火傷も、相当な痛みを齎しているに違いない。
けれど、青年は自身に治癒魔法をかける暇もないのだろう。
傷もそのままに、横転した荷台の陰にエリノアを寄り掛からせ頭を優しく撫でると、青年は置いていた剣を手に取り立ち上がる。
鋼の剣は酷く重たそうに見えるのに、されど軽々と片手に携えて青年は言った。
「先に、悪い奴らは皆やっつけてしまうから。だから少し、待っていて」
戦場の中にあっても、青年は伸ばした手をとってくれたときと同じように碧玉に似た瞳を緩めて微笑み、背を向ける。
逃げることも敵わない、無力な少女を守るべく。
濃紺の外套の裾を翻したその背中は、前日告げた約束を守ったのだ。
結果として部隊は半壊だった。
と同時に、ヴィクトールの奮戦の甲斐あって、襲撃してきたリムデルヴァの手勢と思しき一団を全滅もさせていた。
戦力差から、手加減などできる余裕がある筈もなく、捕縛することも敵わなかった。結果、下手人を捕らえて話を聞きだすということも出来ずじまいである。
何故襲われたのかも、理由はやはりはっきりしていない。
目を閉じずとも、そのときの光景は今でも鮮明に思い出すことができる。
かの出来事は、エリノアが軍人となることを決心させる切欠ともなったから。
後に引き取ってくれた恩義もあるが、それ以上に身体を張ってまで自分のことを守ってくれたヴィクトールに信頼を寄せ、彼の助けになればこそと思ったのだ。
助けて、抱きしめてくれたヴィクトールの温もり。
もう大丈夫だよ、と言って浮かべた優しい笑顔。
そして傷だらけになってまで護ってくれた。
「悪い奴らはやっつけてしまう」と言って背を向けたとき、その後姿が、陽に透かされた髪がきらきらしていて、心強くて。
そして、彼と同じように、自分が他の誰かを、あのときの自分のように無力な人を守ることができるように。
大切なものを失くさずに済むように、と――
◆
ふ、と視界が明るさを取り戻す。
冬の陽射しのような白い光ではない――穏やかな淡い橙色のランプの光が、視界を照らす。
寝具から背へと伝わるひんやりとした冷たさと、自重で、エリノアは自分が仰向けに寝かせられていたことに初めて気づいた。揺れもなく、天幕の天井が見えるからには野営中なのだろうか。
「あ……」
喘ぐような、息を呑むような、ひそやかな音。けれど、傍らにいた人間はそれだけで、エリノアが目を覚ましたことに気づいた。
「気がついたか……ああ、動かなくていい。しばらく安静にしていろ」
掛けられた声は覚えのある、ぶっきらぼうでいて優しい声。
夢の中で縋っていた腕とは異なる人物だと分かって、少しだけ夢を名残惜しそうに、さりとて安堵の想いも拭えず、エリノアは緩やかに瞼を押し上げた。
起き上がってすらいないのに、くらくらと眩暈がするようだった。思考までもが定まらないままエリノアは何とか覚えている限りの直近の記憶を手繰り寄せる。
「私が気を失って、どれくらい経ったのかご存知ですか」
掠れ、ひび割れた声はまるで自分の声ではないように聞こえる。
上半身を起こそうとして、指先がぴくりとも動かないことにエリノアは気がついた。だから制す言葉に従い、視線だけを声の主――いつの間にか合流したらしきアディクト地方視察部隊に同行していた――レオナルトへと向ける。
「三日、と聞いている。ドラゴンの捕縛は成功だ」
問うより先に、任務の報告をしてくれるのはありがたかった。
ブラックドラゴンに<光雫の縛楔>を放った後、同部隊の者達が半永続拘束魔法を付与する光景までしか、エリノアの記憶には残っていない。
成否は懸念していた事柄だったから、思わず安堵の溜息がこぼれる。
「今はナヴェイン要塞へと向かっている。ドラゴン捕獲部隊の、死者は零。負傷者は……重傷者もかなり多くはあるが、幸い皆意識が戻っている。目を覚ましたのはお前が最後だ」
ナヴェイン要塞へ向かうのは、負傷者の治療のためと、ドラゴンの移送先であるためだからだろう。それは分かる。
「死者は、ゼロ」
反芻するように、エリノアは呟く。
そこではたと気づいたように、はしばみ色の目が見開かれた。
「ならば、大佐は。ティアリ大佐は……」
「ティアリ大佐も意識は戻った。回復にはかなりの時間がかかるそうだが、それでも」
大きな手が、エリノアの蜂蜜色の前髪をかきあげながらゆっくりと頭を撫でる。
落ち着かせるように、安堵させるように――そして、労うように。
撫でられる心地好さに身を任せて、エリノアは目を伏せる。
再び目を開いたとき、青灰色とはしばみ色の瞳がかち合った。
青灰色の瞳が笑みの形に細められる。無愛想なレオナルトにしては酷く珍しい。
「頑張ったな、エリィ。本当に、無事で良かった」
「……はい」
愛称で呼ぶのは、笑むこと以上に珍しい。というよりも懐かしいの域にあり、エリノアは口元に小さく笑みを浮かべた。小さい頃はレオナルトもダニエルもそう呼んで構ってくれていたのに、いつからかそう呼ぶことはめっきりなくなってしまっていた。
それぞれの立場というものに、知らず縛られるようになったからかもしれない。
近くにあるレオナルトの顔に手を伸ばそうとして、やはり体がぴくりとも動かないことに改めて気づかされた。手の指先も、足先も、数十倍の重さになったかのような感覚に似て、酷く重く、泥の中に沈んでいくような錯覚にさえ陥っている。
対して、頭を撫でるレオナルトの手の感触は遥かに軽くて、心地が好い。
「冷え切ってるんだな」
ぼそりと呟いたかと思うと、青年はエリノアの手をとり、自分の手のひらに重ねて覆った。
重ねられた手がじんわりと温かくなっていく。
それ以上にエリノアの気持ちはふわふわと昂揚していた。頬が熱いと感じるのは気のせいであって欲しい。
理由は明白だ。
作戦の成功のみならず、傍にレオナルトがいるから、身を案じていてくれたことが嬉しかったからなのは間違いない。
年を重ね、軍に入隊して更に距離は開き続けたにも関わらず、王都から遠く離れた野営地でこうしているのも何だか妙な気分ではあった。レオナルトの傍にいるために入隊したわけではないのに、いざ近くにあると嬉しくてむず痒い。
軍部の移動用天幕内ゆえに自制すべきだと思いながらも、同時にこのままレオナルトに触れていて欲しいという願いもある。
そうでなくても無骨な言葉さえいつもより優しくて、充分すぎるくらいだ。
重ねられたぬくもりと、優しい手つきに身を任せ、エリノアは口の端に穏やかな笑みを浮かべる。
心地好い、信頼があった。だからあの夜の疑念なんてものは、少なくともレオナルトに持つべきではなかったのだろうと思う。森で襲われたときには身を挺して庇ってくれて、今はこうして手をとってくれているのだから。
「レオ、あの夜の――」
ダニエルと三人で夕飯を食べに出かけたあの日の夜のこと。話を切り出そうとしたエリノアの言葉を遮ったのは。
「アルムスター少佐、エリノアの具合は――」
天幕を潜り、静かな声と共に入ってきたのはヴィクトールの姿だった。




