01:枯れた指先で
エリノアはある災厄――それも人為的なもの――に見舞われた村での、唯一の生き残りだった。
そしてその出来事を知る者からは、エリノアの存在は忌み疎まれてきた。
無理もないことだろう、とエリノアでさえ思う。
その災厄とは、『バルムリーズ魔力汚染事件』と呼ばれている。
十年程前。エリノアが八歳のときまで、リムデルヴァ王国にも程近い場所――ラグジエントの西端――にバルムリーズという小さな村が存在していた。
そこで起こったのが、魔力汚染による村民の死亡事件だ。魔力汚染による事故は在っても小さな村でというのは酷く珍しいものであり、事件ともなれば起こったことは妙とさえ言える。
その小さな村はエリノアの生まれた場所であり、事件が起こるまでずっと暮らしていた場所でもあった。だが、事件から今に至るまで、未だその村があった一帯は立入禁止区域となっている。ゆえにエリノアはその事件の際に助け出されてから以降、自分が生まれ育った村を訪れたことは一度もない。
そして、事件は概容しか公表されていない。
公表された内容は、「村を含め、その周辺一帯が高濃度の魔力に侵された」という点に留まる。当事者であるエリノアでさえ、その現象が「人為的に引き起こされたものである」という話をヴィクトールから聞くことが出来たに過ぎず、その話さえ軍上層部にコネクションをもち、魔導研究部門にも籍を置く彼だからこそ入手できたに違いなかった。
魔力とは大気中に常に存在しているものだ。触れれば即死に至るようなものではないし、寧ろ魔力が完全に枯渇した場所であれば、人は生きられない。
だが、だからといって人は高濃度の魔力の中で生きることもできない。
その高濃度の魔力が人為的に――どうやってかは分からないが、村に散布された、或いは発生させられたのかもしれないのだとヴィクトールは言っていた。
方法は分からない、とも。
通常、開放された空間に魔力が密集して滞留することはなく、すぐに分散する。
魔法を発動させるプロセスの中で魔法滞留維持の工程を必要とするのは、それがなければ魔法を発動するための大量の魔力をその場に維持できないからだ。
未だに事件解明のためのある程度の理論の構築は進んでいるらしいが、実際に解明できたという話は聞かない。ただ、その事件を引き起こしたのは恐らくリムデルヴァの軍事関係者だろうということだった。
村の付近にリムデルヴァ軍の武装の一部が落ちていたのが証拠だというが、リムデルヴァ側はこの事実を否定したそうだ。
指先の感覚がない。
ゆるゆると零れ出す吐息は頼りなく、か細く白い煙となって空気に溶ける。
「――――――――」
声は、もう音にすらならない。渇いた唇をなぞるのは、冷たい外気ばかり。
扉を開いた先は、枯れた、命のない世界だった。
ある冬の夜――時は、夕餉の頃合。
突如、体が痙攣した。そして体中の力が抜けていった。
初めは風邪がぶり返したのかと思ったが、母も何かを感じたのだろう。だが振り向いて間もなく、母は力なく食卓に突っ伏し、そのまま動かなくなった。父は村の会合から帰宅する前だったから、寄り合い所か帰路にあったのか。結局家に帰ってくることは無かったが。
エリノアは助けを求めるために、次第に動かなくなる体を引き摺って家の扉を開いた。助けてくれるのなら誰でも良かった。父であれば一番心強かったし、物知りの薬士でも良かったのだ。けれど、力の入らない足はそれ以上前に進めさせてはくれず、腕は伸ばすのが精一杯だった。
家の戸口で倒れたエリノアは、それ以上は動けなかった。
散ることなく滞留した魔力は、村を覆いつくし、否応がなしにありとあらゆる生命を蹂躙していた。
人間も、家畜も、植物さえも、だ。
木は枯れ、花は萎れ、人の亡骸さえ干からびて。
エリノアを除いて、誰も、何も助からなかった。
忌み、疎まれても仕方がないとエリノアは思っていた。
(これは、夢……?)
全身が重い。地中にずぶずぶと沈んでいけるような重さを全身に感じている。なのに指先や足先の感覚がない。
夢であって欲しい。そう切に思った。
何もかもを目の前で失くしていくような幼いあの頃のような感覚は、二度と味わいたいものではない。
ぼんやりと、枯れた世界を見る。
思考が定まらない。
これが夢で、成長した自分が黒い竜と戦ったことが現実なのか。
それとも黒い竜と戦ったことが空想の産物で、今死に絶えようとしているのが現実なのか。
(……前者だ。私は、確かに生きて村を出た)
それがたとえ、村で唯一の生存者として、でもだ。そうして、かろうじてとはいえ、エリノアだけが生き残った理由は今もまだ解明されていない。
報告を受けてやって来た魔導士達に救出されるまで、エリノアはただ死体のように、戸口に横たわっていることしか出来なかった。
母の亡骸を背に、遠目に幾つか見えたのは村人の枯れた死体。
手の指先が、足の先が凍え、魔力汚染の影響と冬の寒さで体は芯まで冷えて動かなかった。
寒さと、飢えと、直前まで季節風邪で寝込み体力が削がれていたことも相俟って、死の淵をさ迷っていたのだろう。
物音一つしなくなった村を死体のように横たわり、眺めていることしかできなかった記憶がいやに鮮明に残っている。
ふわり、ふわりと舞うように降っていた雪のようなものは、いつの間にか止んでいた。
夜が明け、もう一晩を越し、ようやく軍の魔導士達が救助にやってきたときには少なくともそれは止んでいた。
いつしか気を失っていたエリノアは、救援の言葉より、気味悪がる言葉が先に耳に届き、瞼を震わせてうっすらと目を開く。自分が待ち望んだ助けは、訪れた者達にとっては忌避することだったのだとすぐに理解できた。
少なくとも母がもう助からないだろうことは予想していた。他の人の状態は、やはり魔導士達の会話からそれとなく察せられた。
自分だけが、助かったということも。
嬉しいという気持ちは不思議と湧いてこなかった。
村と同じように凍えた身体。空を覆う曇天と同じ灰色の心。
再び力なく瞼を閉じようとしたとき、一筋の光がきらきらと揺れた。
「もう、大丈夫だよ」
降るあたたかな言葉。
見上げた先には、雲の切れ目から顔を出した白く輝く陽光に、きらきらと光る白金の髪。
「君の伸ばした手は、僕が、僕達が、ちゃんと受け止めるよ」
合間から覗く碧玉のような瞳をゆるめて、青年は毛布でエリノアを包み抱きしめてくれた。手を握る指先は、寒さの厳しい土地柄のせいか冷え切ってはいたけれど、その言葉もその瞳も、心の内のあたたかさを伝えてくれるには充分すぎるものだった。
当時はまだ士官学校を卒業して間もないヴィクトールは十八歳だっただろうか。魔導部隊所属でないにしろ、ヴィクトールの場合、士官学校は魔導クラスを出ている。そして士官学校を出た魔導士は、魔力汚染の事象と脅威について知らぬ者はいない。
ゆえに、その魔力汚染の中で生き延びた異常ともいえるエリノアの存在に対して、耐魔力汚染武装をしていながらも気味悪がった大多数の反応は無理からぬものだ。ヴィクトールの反応こそが変わっていたとも言える。
「もう、大事なものを失くさないように守ってあげるから」
少女を抱きかかえた青年は、真摯な瞳でそう告げた。
それは青年の決意であり、少女に対する約束であり、少女へと容赦ない現実を突きつけるものだった。
大事なものを失ってしまった、という現実を再認識し、諦念以外の想いが胸を埋め尽くす。
ぼろりと頬を滴が伝っていった。
幾筋も、幾筋も頬に滴が伝い流れていく。
包まれた毛布とヴィクトールの腕の中で、エリノアは力なく小さな嗚咽を零す。
母も、恐らく父も。遊び仲間も、最近生まれたばかりのお向かいの赤ん坊も。
ようやく自分に慣れてくれた雄鶏、大切に育てていた鉢植えの花すらも。
命あるものは全て奪われてしまったのだと、少女は悟った。
「もう大丈夫。僕が守ってあげるから」
繰り返される言葉に、抱きしめられる強さにエリノアは何も言葉を告げられなかった。 言葉にはならなかった。しようがなかった。
理解できたのは喪失で、表せるのは悲しみだけで、結果として涙と嗚咽が零れるだけ。疲弊した身体から漏れる嗚咽は、声にすらならない。
止め処なく溢れ零れ落ちていく涙が、抱き上げているヴィクトールの胸元を濡らしていく。
亡くなった者達へ別れを告げるかのように、ずっと。ずっと。
ヴィクトールはそんなエリノアが泣き疲れ気を失うまでずっと傍にいてくれた。
人のぬくもりを、命があることを確かめさせるかのように、手を握ったまま。
涙と疲労で滲んだ視界だったことも手伝って、どんな世界を見ていたのか、ヴィクトールがどんな表情をしていたのか、エリノアははっきりとは覚えていない。
けれど世界はとても冷たくて、枯れていて、『怖い』と感じたことを覚えている。同時にその中で繋いだ手の温もりが、確かなあたたかさだったようにも記憶している。
そして守ると言ったヴィクトールの言葉は、すぐに証明されることになった。
エリノアが助け出された翌々日、一行はリムデルヴァの部隊に襲われたのだ。




