07:割れた鏡
ドラゴンは真紅の瞳を細めてうっそりと笑みを浮かべる。
途端に、エリノア周囲の目に見えぬ魔力がぐるりと渦巻いた気がした。ドラゴンによるものなのか、偶然とすべき現象だったのか、自分だけが感じたものなのか、皆も感じたものなのか。
何が真実だったのか。
ただエリノアは、突き出したてのひらの上で何かが融けるような、解けるような感覚がした。
世界がずるりとずれるような、歪むような、捻じ曲げられるような感触があった。
エリノアがそう感じた途端、瞬く間に魔法の瓦解が始まる。
それは伸ばしたてのひらの上に繊細に積み上げられた積み木が、音もなく崩れ落ちるような感覚に近い。
本来魔法は構築された魔導構造を分解した後、魔力を拡散し消滅させるという手順をとる。それが、最も術者に負担がかからず、現状で把握出来ている魔法の終了までにおける工程の最適解とされている。
魔法は魔力の力場発生、魔導構造構築、魔力滞留維持を経て操作、発動に至る。その後、構造の分解、魔力を拡散することで魔法が消滅する。
その手順に誤りがあれば、魔法発動のために滞留させた魔力が暴発を起こしたり、術者に跳ね返ってくるなど暴走したりすることがある。
魔導構造に異物が混入するか構造自体をかき乱したならば、既に起動されている魔法は発現すべき現象を大きく捻じ曲げられ、結果として魔法の暴走の度合いは大きくなる。
本来ならば、既に組み立てられた魔導構造そのものに外部から手を加えることなどできないだろう。だがドラゴンは人外の存在であり、そもそも魔法行使の原理からして違うとも言われてきている。介入した方とて、相手の魔力や魔導構造が逆流することもあるため、ドラゴン側とてただでは済まないだろうが、それでも尚止めようとしないのは反撃に躍起になっているからに違いなかった。
エリノアのてのひらの上で展開されていた防御魔法の魔導構造は、ドラゴンが介入した魔力と融和し、混じり合い、魔力を逆巻かせる。
力が、毀れ落ちる。
薄い魔力の膜が不規則にぐにゃりと歪む。撓んだような歪みはすぐに耐え切れなくなり、高く乾いた音を立て粉々に弾け飛んだ。一瞬だけ空へと押し戻されたかに見えた魔力の欠片は、ほんのりと緑色の濃さを増した小さな硝子の破片のようになって、防御壁の内にいた人間達へと降り注ぐ。突如吹き荒れた魔力の風と魔法壁の破片が嵐のように荒れ狂い、その流れは縦横無尽に、歪ででたらめに不規則に迸る。
赤い、赤い、飛沫が上がった。
肌の上を滑り切り裂いた魔力の刃など、身体に受けた負傷の程度としては大したものではない。出血は派手だが、致命傷ではない。民間人ならともかく、軍人ならば動けないことはないだろうという程度の傷の深さだ。
それよりも衝撃と共に逆流した魔力が体の中を駆け巡り、体内をぐちゃぐちゃにかき混ぜるような現象こそが、部隊に壊滅的な被害を与えていた。
強烈な不快感と眩暈、吐き気が一気に押し寄せる。
エリノアは大きく体を痙攣させ、崩れ落ちるように膝をついた。肺から押し出されたと思った空気は吐息ではなく、代わりに泡混じりの赤い塊が吐き出される。口の中に鉄錆の味がじわりと広がった。
魔力に打ち据えられた人々は、なす術も無く頽れてゆく。顕著なのは魔力を持たぬ兵士達。魔法の扱いに長けた人間は半ば強制的に魔導士として組み入れられる為、逆説的に兵士の中には魔法の扱いに長けた者は幾人かの例外を除いてほぼ存在しない。ゆえに一般兵は強力な魔力自体へ対抗する術を持たぬ者が多い。
だが、魔導士達とて避けることが出来たのは幾人いただろう。見える限りではエリノアと同様に血を吐き、血溜まりに伏した者が多数を占めているように思われた。
重い首をもたげると、伏したティアリ大佐の姿が目に入った。その体の周囲は、やはり鮮血でしとど濡れている。微かに覗く肌は赤く染まる地面とは対照的に血の気が引いており、完全に色を失っていた。状態は周囲の者より遥かに重篤に見えた。
「ティ……」
名を呼ぼうとして、ごぽ、とエリノアは喉を迫り上がってきた血の塊を再び吐き出す。
(ああ、この光景は知っている)
吐き出した鮮血で口元を赤く染め、よろりと傾ぐ体を無理矢理起こした。体を支えた右手ががくがくと震える。脳も、内臓もまだ大きく揺さぶられているようだ。
そして、それ以上に心が揺さぶられていた。
揺らぎながら繋ぎとめられた意識と、思うように動かない体も。
見知った顔が幾人も幾人も斃れている様も。
雪が地面を覆う世界も。
(この光景は知っている)
遭遇時のドラゴンの問い掛けに、どこか合点がいったようにエリノアは微かに俯く。
他者との決定的な違いがあるとするならば――それは、過去に『ある災厄に見舞われたか否か』ということだろう。ドラゴンがエリノアの過去を知っているとは思えなかったが、人に分かり得ぬ異常が自分の身に生じており、ドラゴンにのみ感知されたしても不思議ではないことなのかもしれない。
「人に忌み嫌われるのは、道理、だと、いうことかな……人が本能的に避けても、おかしくは、ない」
災厄とも言われた事件の原因の一部を、そして災厄が自分に齎した影響をエリノアは知っている。
その災厄とも言われる、魔力汚染による村民死亡事件。ある村の周辺一帯が高濃度の魔力に侵されたその事件でのただ一人の生き残りであるエリノアは、当然ながら魔力汚染の被害に遭った。今とは異なり一介の村民であったエリノアは、高濃度の魔力に対処する知識も力も、当時は持ち合わせていなかった。
ゆえに、その身も魔力に汚染された。
汚染された生物は絶えず高濃度の魔力を放出するようになり、自身も傍に在る者も等しく侵していく。そして生物は自身が生み出す高濃度の魔力に耐えられず、自滅する。
エリノアに限って言えば、救出されて数日間のみ比較的高い濃度の魔力が検出されただけで、以降は一般人と同様にほぼ検出されなくなった。
生存できた理由も、次第に魔力濃度が低下し消滅した理由も、未だ明らかになっていない。
事件以来、定期的に様々な検査を受けているものの、他者に影響を及ぼすような結果は特に出ていない。魔力滞留維持が苦手なのはこの事件の影響もあるのだろう、と魔導研究所で言われたことがあるだけだ。
「人では、なくなりつつあるのかな……」
ぼそりと小さく零れた呟き。ごふ、と血が再び溢れ語尾を掻き消す。
ただの懸念だ。飛躍しすぎた考えかもしれない。そう、ふと思ってしまっただけだ。
絶えず低く響くドラゴンの喘鳴に、うっすらと双眸を細める。
ドラゴンに「何か」と問われるなど、人という括りから離れつつはあるのかもしれないのだが――
悄然と項垂れたエリノアの意識までが揺らぎかけたとき、足を引き摺るように雪を踏む音が背後から聞こえた。緩慢に振り向くエリノアが足音の主の姿を確認するより先に、『彼女』が口を開く。
「莫迦なことを喋る元気があるのなら、まだ大丈夫そうね」
その声は微かに掠れていたが、気力を失ってはいなかった。




