05:雪中の黒、射抜く瞳の先に
隊列の中央付近を歩いていたエリノアは、ふと妙な気配を感じた気がして、首をめぐらせた。
その仕草に注意を向けた者はいない。
エリノア以外に何かに気づいた素振りを見せた者もまたいなかった。
(……気のせい?)
胸がざわつくような感覚だった。
緊張によるものだと自分に言い聞かせようとしたところ、広範囲型の探査魔法を操っている魔導士が声を張り上げる。
「ドラゴンの本体反応を確認。二時の方角、五キロメートル先です。現在の行動の詳細は判別できませんが、ゆっくり周回しているようです。やや距離が詰まってきているようにも感じられますが、此方にまっすぐに向かってきているわけではありません」
行軍していた者達に、ぴり、と緊張が走ったのが分かる。
見つかってはいないということなのか。
それとも見逃されているのか。
「林の向こう側で狩りの最中か?」
ロティシオン中将は低い声で唸る。
低空飛行しているのだろうか。此方からドラゴンの姿はまだ見えない。
その気配とて、広範囲型探査魔法で探ってようやく見つけられた、という程度の距離が離れている。
だからと言って、ドラゴンから自分達の姿が確認されていないとは言い切れない。何しろ人間を遥かに上回る身体能力と魔力をもつ種族なのだ。
ゆえに人間がドラゴンに侮られることは多い。が、侮ってもらえた方が好都合ではある。
「林間を抜けよう。あとは場所を大きく移動しないことを祈れ」
密集した森林は、ドラゴンにとってはあまり有利な場所ではない。大きな体躯と翼が邪魔をして中に入り込みにくい、というのが主立った理由だ。
森林からドラゴンが離れてしまえば、林を抜けて襲撃することは当然難しくなる。出来ることならば、少しでも人間にとって有利な林の中から攻撃を仕掛けたい。
ドラゴン討伐部隊長の号令をもって、一団は林の方角へと静かに転進した。
冬枯れた林の向こうに、開けた山の斜面が見えた頃。ようやく視界に捉えられたブラックドラゴンは、その名の通り、黒一色の鱗に覆われたドラゴンだった。白い雪原の中に浮かんだ、漆黒の禍々しい染みのようにも見える。
体高は三階建ての民家よりもやや低い程度だろう。ドラゴンの中でもかなり大きい部類に入るブラックドラゴンだが、木々の隙間からその姿を確認出来たときは、その大きさを実感せざるを得ない距離までに既に近づいていた。 そもそも林の中から接近した討伐軍の問題は、まず、ある程度まで接近しなければ敵の姿を視認出来ないということだ。
探査魔法で常にその存在位置は把握しているが、正確な位置が分かるのは、その探査魔法を起動している魔導士だけだ。常に他の魔導士や兵士達に周知できるわけではないし、姿が見えねば兵士にはなす術もない。
ドラゴンが気づいているのかどうかは、やはり分からない。
隊長による進軍停止の合図が伝達される。
世界に染み出るようでいて、黒く、影のようにも見える大きな塊がエリノアの目にも映った。
ぞわりと肌が粟立つ。
言いようの無い不安と悪寒が背筋を滑り落ちた。
ドラゴンは地面に足をつけ、屈んで雪原に置いた何かを食んでいるように見える。屈んでいるにも関わらず、その体躯は実際のものよりひどく巨大に感じられた。背中から生えた翼は綺麗に畳まれて正確な大きさは分からなかったが、資料によればドラゴンの翼はその体躯と同程度かもしくは以上の大きさを持つのだという。鱗も相当に硬いのだと聞いたが、遠目では全身が微かに艶を帯びた漆黒だということまでしか分からない。
だが、怖いのは大きさではない。
硬い鱗でもない。
エリノアが恐怖に目を見開き見つめた先にいるドラゴン。そのドラゴンが纏う魔力こそが、エリノアにとって何よりも恐ろしかった。
ブラックドラゴンの纏う魔力が人とは比べ物にならない程強く、身震いする程濃く、眩暈がする程暗い。
エリノアは、今まで他人の魔力を感じたことなどほぼ無いと言っていい。人が素のままで感知できるものでもない、というのが魔導士にとっての常識だ。間違いなくこの感覚が異常なのである。
これは――気圧される。
ともすれば力に呑み込まれそうになる感覚すら覚える。
何かが頭の隅を過ぎった気がしたが、それが明確なものになるよりも先に、臓腑が鷲掴みにされるような錯覚に意識が奪われた。雪を踏みしめる足に力を入れ直さなければ、よろめいてしまいそうだった。
けれど、不思議なことに、周囲の者達はそんなことなど微塵も感じている様子はなかった。
緊迫した様子なのは分かるが、ただそれだけだ。ドラゴンの纏う魔力の強さに、その質の、密度の濃さに慄くような素振りを見せる者はいない。
(皆は何とも思わないの……?)
エリノア自身はドラゴンとまみえたのは初めてだ。だが、新人でなくともドラゴンと対峙したことのある者だけで構成されているわけではあるまい。
慣れているだけ、ということでもないだろう。
そもそもこの魔力を人為的に作り出すのは不可能とも思える程、密度が濃い。
それなのに誰もが、平然としている。
ならば、気づいているのは――
(私だけ?)
自分だけが気づいたのだとしても、それを可能にする理由がない。思い当たる節もない。
けれど胸の内がざわついている。
恐らく、明確な記憶がないだけで、自分はざわつく理由を知っている。
鼓動が早くなる。
エリノアが内心狼狽している間にも、討伐隊長や班長の指示に従って各自が行動を始める。エリノアもまたティアリ大佐に付き従って場所を移動し、防衛魔法の準備を始めねばならなかった。
余計なことを考えている暇も、それを許してくれるような相手でもないだろう。
風向きが僅かに変わると、冷たく清涼な風に血臭が混ざる。
野鹿だろうか――何かの動物の死体を食んでいた黒い大きな影が、ゆっくりと此方を向いた。
人の気配には気づいていたようだ。その存在に驚いた様子はない。
此方の準備は既に万全に近い。陣形の展開は済んでおり、いつでも攻撃魔法、防御魔法共に起動できる状態にある。
魔力と、緊張がその場に横たわる。
吐き出された息が真っ白な靄をつくり、動物の死体で汚れたドラゴンの口元が赤くぬらりと光った。剥き出しにした歯もまた赤く染まっている。
首をもたげ林に展開した人間達をゆるりと見渡すと、ある一点でその視線が止まった。縦に裂けた紅色の瞳孔がぎょろりと動き、胡乱げに目が細められる。
「何だ、『お前は』」
ごぅ、と魔力を伴った火炎と共に、凶悪な口から零れる訝しげな声。
その瞳は、真っ直ぐにエリノアを捉えている。
どくん、と心臓がひときわ大きく跳ねた。




