03:女達の攻防(2)
言いたいことだけを言って乾パンを口に放り込んだサラが、ゆっくりと咀嚼しながら窺うように此方を見る。その瞳には嘲りが垣間見えるのかと思いきや、どちらかと言えばからかうような表情を覗かせていた。
真意が分からない。けれど抱いた不快感がそれで拭える筈もなく、エリノアは押し黙る。
沈黙したエリノアの表情を確認し小さく息を吐いたサラは、ふいと視線を外した。
微かに俯くと、頭部を覆うフードから零れ落ちる髪で紫の双眸が隠れ、表情が読めなくなってしまう。
けれど――
「いいわね」
湯気の立つスープで湿らせたその口から、ぽつりと零れ落ちた言葉。耳朶に残るその呟きには、確かに羨望の響きが滲んでいた。
「クロイツ少尉は純情なのね」
「は?」
だが、続く予想外な言葉に、エリノアは間抜けな声を洩らす。
「……馬鹿にしているんですか」
「羨ましいと言っているのよ」
柳眉を潜め、険を含んだ声で吐き出すエリノアに対し、サラは苦笑いを浮かべる。
エリノアの生い立ちも噂程度には聞き及んでいるし、それは大変なことだっただろうとも思うが、サラが真にそれを理解できることはないだろうとも思っている。けれど、貴族として生まれ貴族特有の重圧に晒されながら育ってきた自分の苦労もまた、エリノアに理解できることはないだろう。
これは、ただの嫉妬なのだとサラは重々承知していた。それをエリノアにぶつけるべきではないことも、また。
周囲に積もる雪に溶けるような白い息を吐き、ふとサラが顔を上げる。此方に視線を戻したその紫の双眸には、柔らかい微笑みが浮かんでいた。話しかけてきたときに感じたような、挑戦じみた色も見受けられない。
瞳を緩めて微笑む目の前の女性の意図が分からず、エリノアは再び口を閉ざした。
サラの笑みが、申し訳なさそうな苦笑に変わる。
「貴女に謝らないといけないわね。試すような言い方をしてしまって、ごめんなさい。会って話すたびに貴女のことしか訊いてこないものだから妬けちゃって、ちょっと意地悪したくなってしまったの」
「…………」
訳が分からない。
首を傾げたエリノアに、サラが「アルムスター少佐のことよ」と小さく笑う。
「私とレオ……アルムスター少佐は、ただの友人よ。婚約もしてないし、恋人としてお付き合いしてるわけでもないわ。家絡みの付き合いが多いのよ。婚約なんて私のお父様がそう望んでるだけで、アルムスター少佐の方には全くその気なんてないでしょうね」
「婚約、してないんですか?」
呟くような問い。
婚約したという噂が広まり、それが事実とは異なるという話を今まで殆ど耳にしなかった。当人達が否定していたなら、そんな噂などすぐに消えただろう。噂が一人歩きしていたにしろ、そこまで広まったのは当人達が否定しなかったが故にだとエリノアは思っていた。
サラが普段レオナルトのことを階級付けで呼んでいるわけではなく、愛称で呼んでいるだろうことも薄々察知できる。
勘繰るなという方が無理がある。けれど、サラは即座にきっぱりと否定した。
「してないわ。でも訊かれたときに、肯定も否定もしなかったもの。その点はアルムスター少佐も同じね。私のお父様を静かにさせておく為に、協力してもらったのだけど……悪いことさせちゃったわね」
ふう、と息を吐き、頬杖をつく。傾げた白い頬に、栗色の髪がふわりとかかった。
「でも、この前抱きついて」
「眩暈がしてよろめいただけよ」
これは嘘だった。
嫉妬していたから、何か意趣返しをしたいと思ってしまった。それ故の行動だった。けれどその事実をいう心算はサラにはない。意を決して打ち明けることにしたのに、話を拗れさせるわけにはいかない。早ければ明日にもドラゴンとまみえることになるのだから、余計な禍根を残している場合ではなかった。
サラの意中など知る筈もないエリノアは、腑に落ちないものがあったものの、ひとまず曖昧に頷く。
「この作戦が始まる前に言うか、終わってから言うか悩んだのよね……でも、言えず終いでは困るし。聞いたところで、浮ついた気持ちにはならないだろうって思ったから」
不穏な言葉を混ぜつつ、甘さの残る瑞々しい声でサラは言った。
「だから言うことにしたのよ。婚約なんかしてないわ。だから、頑張ってね」
「頑張ってね、って」
まさか応援までされるとは思わず、エリノアは絶句した。てっきり牽制されるのかと思っていたのだが。
何かに思いを馳せるように、サラが視線を泳がせた。
「婚約の噂が本当だったらねぇ……確かにアルムスター少佐が婚約相手なら確かに願ってもないことなんだけど」
その言葉に、エリノアは体を固くした。その様子を見たサラが、再び苦笑いを浮かべ首を横に振る。
「顔はいいし、背も高いし、腕も確か。頭の回転も早くて、気が利いて、優しい性格だもの。結婚するなら打ってつけの相手でしょう? お父様が他に持ってくる縁談なんて、頭が空っぽで自分勝手な貴族のボンボンばかりなのよ。それと比較してしまうと嫌にもなるわ。挙句、お前は頭が良過ぎるから嫁の貰い手がないのだと言い始めて」
エリノアは小さく噴き出し、なるほど、と思った。
たしか、サラは自分達より一年前の王立士官学校、魔導クラスにおける首席卒業者である。通常クラスとは武芸の点で比べることは出来ない上、サラは小柄で力も劣る。だが、技術的には一般兵としても申し分ないレベルで武器を扱える――という話をダニエルに聞いたことがあるような気がする。勿論、筆記については毎回全ての科目をほぼ満点でクリアしていたという。惜しむべきは、魔法を行使する為の魔力が格別高いわけではないという点だが、そもそも魔力の高さは訓練で大きく変動するものではないし、サラは軍部では本来支援の役割として配置されている。それを考えると、魔力が並より低いとて充分役に立てる立場にあるのだ。
フルーリー伯が自身の地位を確立させるために腐心しているという話も聞いたことはあった。その貴族の息女でありながら、非常に優秀な魔導士であるというだけで、そんなことを言われるとは。
エリノアは考えてもみなかったことである。
納得したエリノアはようやく緊張を緩め、カップに口をつけると既に中身が空になっていることにようやく気づいた。水筒からカップへと湯を注ぎ、ポケットから小さな包を取り出し傾けると、粉末がさらさらと音を立てて湯の中に流れ込む。
その様子を黙って眺めていたサラが、不安そうに口を開いた。
「ねぇ、クロイツ少尉。貴女、よくそれを飲んでいるけど薬? どこか具合が悪いなら医療班に言った方がいいわよ」
覗き込む鉱石のような紫の瞳に、心配そうな色が滲む。
本当に、親身になって心配しているらしい。思わずエリノアの顔に笑みが零れた。
「昔から飲んでる緊張を解すためのハーブティーですよ。どこかが悪いとかではないので、大丈夫です」
「そう? それなら良いのだけど」
実のところ、原料はよく知らない。ヴィクトールに引き取られてから、毎晩寝る前に飲むのが習慣になっていた。だが幾種類ものハーブをブレンドしたという其れは、何がどれだけ入っているのか――それを知っているのは、今では亡き実母から継いだというヴィクトールだけだろう。訊いたこともあったが、結局教えてはもらえないままだ。余程の秘密なのだろうと一人納得してからは、調べようと思ったこともない。
嗅ぎ慣れた香りが鼻孔をくすぐる。
いつもならこの香りを嗅ぐだけでも、心も、全身の血液も凪いだように静まる気がするのに、今日ばかりは何故か胸がざわめいた。
液面を照らす光を追ってふと見上げれば、大きく肥えた月が目に映る。
踏み固められた真白の大地が、その肥えた月の光を皓々と跳ね返しているだけだ。何の変哲もない、見慣れた――そして懐かしくもある――雪景色と、夜空に浮かぶ月が見えるだけである。
「何かあったの?」
「……いいえ、何でもありません」
ドラゴンとの戦いが迫っていることに、緊張しているだけだ。そう自分を言い聞かせて、エリノアは頭を振った。




