01:エノンサの憂鬱
石造りのこの建物は堅牢だが、春が近づいてきた今でも酷く冷える。それは石材であることが原因なだけではなく、標高の高いフォルカ山脈の尾根から滑り降りてくる冷たい風のせいでもあった。
すぐに冷えてしまうこの建物にあっては、暖炉にくべられた薪は赤々と燃えていても、部屋の隅々までその熱は行き届かない。
故に、防寒対策として屋内であるにも関わらず厚手の外套を羽織ったままの男は、執務机の椅子に腰を据え、先程手の者から届けられた報告書類に見入っていた。
「捕獲部隊が出立したそうだ。出発した日から考えても今日から三日以内には、ドラゴンと遣り合うことになるだろうが……相手が一匹だけとはいえ、本当に成功するのか?」
「成功したらマズイんじゃないんですかね、大佐」
ぽつりと零した男の疑問に、砕けた口調の男の声が返る。胸に少佐の徽章をつけた若い男が、暖炉の前に置いた椅子で寛いでいた。暖かな暖炉の目の前に腰掛けているということは、寒いこの場にあっては特等席を陣取っているようなものだ。それも目下の者が、である。が、双方共にそれを気にした様子はなく、少佐はあからさまな欠伸を噛み殺し、大佐は報告書類の紙を淡々と捲っていた。
「そもそも、捕獲に成功できたところで、それを制御出来なければ意味はない。不用意に戦線へ引っ張り出したところで、暴れられたら自滅するのがオチだ」
大佐はファイルを取り出すと、他の書類と同じように報告書類を綴じて棚へと仕舞い込む。
「そりゃ、こっちとしては自滅してくれた方が願ったり叶ったりなんですけどね」
眠気覚ましにか、小さな水筒を手の上で弄んでいた少佐はもう一度欠伸を噛み殺し、小さく苦笑を浮かべた。中身は度数の高いアルコール――ではなく、生姜湯が入っているのだったか――といつだったか少佐から聞いた話を思い出し、大佐は青年の手の上で跳ねる水筒をぼんやり見つめていた。
要するに、ぼんやりすることが出来る程度には彼らは暇だった。
常に緊張状態にあるラグジエント王国とリムデルヴァ王国の国境、そこに程近い場所に位置するリムデルヴァ王国における、国境警備軍最大の駐屯地・エノンサ、その地名と同様の名を持つ砦に彼らはいた。
戦争の気運も高まる中、軍人である彼らにやるべきことがない訳ではない。やるべきことは既に手を打った後であり、今は事態を見極めて動かねばならないという状況にあるだけだ。戦争開始の命令が発動されなければ隣国へ攻め込むこともない。
民間の視線から見れば、両国の緊張状態は続いてはいるものの、軍関係者の間では、今すぐ戦端が開かれる状態ではないとの見方が強い。今のところ両国の軍に動きは少ないように見えるせいでもあった。
だが、それはドラゴンの捕獲任務について知らぬせいでもある。
捕獲任務はラグジエント王国軍の重要機密である筈だ。リムデルヴァの上層部も『捕獲』ではなく『討伐』であると何の疑いもなく思っているに違いない。リムデルヴァから見ても、ラグジエントの王国軍によるドラゴンの『討伐』については然して珍しいことではないのだ。
ラグジエント王国軍に特殊部隊が編成されドラゴンの『捕獲』に向かったことを知っているのはラグジエントならば国の中枢に近しい者や軍関係者、リムデルヴァならば軍の極一部ぐらいだろう。そもそも軍部の重要機密が隣国に知られていること自体、おかしな話ではあるのだが。
「さて、自滅するだけで済んでくれればいいが……此方にもその被害が及ぶとなれば、また話は別だがな」
大佐と呼ばれた男は視線を手元に戻し、仕舞い込んだ書類の代わりに取り出した、丸めた一枚の大きな紙を机の上に広げる。
分断するような線や、記号など細々とした書き込みがあるそれは、リムデルヴァとラグジエント、そしてティスレイン諸国連合をも含む地図だった。国境を中心に大きく描かれたその地図には、自国の砦だけではなく隣国の砦の印も記載され、地図の国境線に大きく食い込む形でフォルカ山脈の線も引かれている。
大佐は報告書類の内容を反芻しながら、ドラゴンの目撃地点と各砦の位置を見比べていた。
確かにラグジエントは国境付近に軍隊を集結させた様子はない。国境のみならず、少し距離を空けた砦にも人員を追加した様子もない。入れ替わりはあるようだが、例年よりやや多い程度とも取れる量だ。
大佐には幾つかの推論があったが、裏付ける情報はまだまだ足りなかった。
渋面により深く刻まれた眉間の皺を、親指の腹でぐりぐりと揉み解し――はた、と気づいたように「ところで」と大佐は顔を上げた。
「お前はなぜ此処にいる? それとも報告書類の提出か?」
「すげー、今更っすよ、大佐ぁ」
うーん、と身体を大きく伸ばした部下は、全身のバネを使って跳ねるように椅子から立ち上がる。
「や、俺、これから部下と一緒に酒を飲みに行く約束してて、外に出る前にちょっと温まりに……いてっ」
硬いものがぶつかる音に続き、石床に落下した金属音が響いた。少佐の足元でブリキの皿が、未だくるくると回っている。
「ちょっ、大佐、すぐ皿投げんのやめて下さいよー。それ娘さんにも怒ら」
「報告書類がまだ出ていない。出してから行け。それならば文句は言わん」
怒気を詰め込んだ声で、大佐は部下の反撃を封殺した。部下の方も触れられたくない話だということは分かっているらしく「あー、そーっすね」と言葉を曖昧に濁す。
「んじゃー、口頭だけじゃ駄目ですかね?」
「まずは話してみろ」
大佐のこめかみに浮いた青筋は健在である。少佐は水筒をくるりと回し、大人しく記憶を手繰った。
「えっとですねー、デュッツェン大隊長の放った刺客が全員消息不明だそーですよ」
「遺体の回収は」
「出来てないそうです」
「消息を絶った場所は特定出来るか?」
淡々とした遣り取りの中でも、少佐のやる気のないような風情は変わらない。彼の内心までそうだというわけではないと知っている大佐は、部下の口から出てくる情報に信を置いていた。
「今魔導班が調査中っすねー。撹乱されてる可能性もあるんで複数方面から確認とってますが、ラグジエント国内には間違いないだろうということっすよ」
訊き終え、ふむと一つ頷いた大佐は、机の上に広げた地図をちらりと一瞥する。
「いいだろう。場所の特定は急がせろ。極秘任務の通達は追って出す。飲みに行くには構わんが、日付が変わる前に戻れ。以上だ」
「マジっすか。やったぁ、酒楽しみにしてたんですよ」
ふやけたような笑顔を浮かべ足取りも軽くなった部下が、部屋から出て行く。大佐はその後ろ姿を見送ると、机上の地図を元のように丸め棚に収めた。
行動を起こしたい気持ちは少なからずあったが、自分は動けない。
少佐の行動は、国の意思によるものでもなければ、軍上層部の意思によるものでもない。完全に独断であり、ともすれば国益に損害すら与えるだろう意図によるものだ。軍上層部に知られれば、処断も免れない。
大佐はそれを、見て見ぬ振りをする心算でいた。
頼られてからは助言もした。
逆に彼らを利用しているのかもしれないとも思うが、これ以上踏み込むことも手を引くことも出来なかった。
先程の少佐、そして彼に協力する人間の数はあまりにも少ない。
それを知っていながらつかず離れずの立場で居続ける自身に、何と虫の良いことか、と大佐は深く息を吐いた。




