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月の雫  作者: 空雛あさき
第2章 恋理の羽音、黒の諷示
22/44

12:花の香りに安堵して

「何をしているんですか、追わないとっ! 捕らえて首謀者を」

 振り解こうとしてもその手はビクともしなかった。所詮エリノアの力では、本気で行かせまいと腕を捉えたレオナルトに敵うわけがない。

「行かせてくださいっ」

「駄目だ」

 レオナルトも断固として許可する心算はないらしい。はたと榛色の瞳と青灰色の瞳がかち合ったが、先に逸らしたのはエリノアの方だった。

「罠張られてる可能性もあるだろーよ。元々待ち伏せされてたみたいだしよ。ちったぁ、落ち着け」

 呆れ顔でダニエルはそう言いながらごそごそと煙草を取り出し、魔法でその先端に小さな赤い火を灯す。

「待ち伏せされてたんですか、私たち」

「よもや襲われたのが偶然だと思っちゃいねぇだろうな。あいつら、確実にお前を狙ってたぞ」

 紫煙を溜息と共に吐き出すダニエルに、エリノアは渋面をつくった。正直なところ自分たち、もといエリノア自身を最初から標的にしていたとは思ってもみなかった。狙われる理由も思い当たらない。しいて挙げるならばヴィクトールの庇護下にある点だろうかとも考えたが、血の繋がりがあるわけでもない。

 訝しむエリノアをよそに「それに、なぁ」と顎でしゃくって先を促されたヴィクトールが、頷いてダニエルの言葉を引き継いだ。

「捕縛用の魔法にも対策を講じてたみたいで、拘束魔法が効かなかったんだよね。物理的に拘束するのも吝かではないんだけど、ロープも代わりになるようなものもなかったし」

 困り顔でふわりと馬上から降りるヴィクトールの姿は、たったそれだけのことなのに鳥が舞い降りるかの如く軽やかで優雅な所作だった。女性を惹きつけて止まないのは何も容姿と家柄のためだけではない。

 その所作に見惚れていたエリノアは、ヴィクトールに優しく抱きしめられたことに気づくまで少しだけ時間がかかった。ふわり、と優しく仄かに甘い花の香りが鼻腔を擽る。

「義兄さ」

「無事で良かった」

 抱きしめる腕の力が僅かに増す。腕の中の義妹の無事を確認したヴィクトールは、心底安心したように微笑んでいた。

「本当に、無事で良かった。僕の大切なエリノア」

 溶けるような甘くて優しい声が耳朶を撫でる。慈しむ想いが、安堵の感情がじんわりとエリノアに流れ込んでくるような心地だった。

「大丈夫。大丈夫よ、義兄さん。心配させてごめんなさい」

 ようやく緊張の解けたエリノアはその身を委ねるように、ヴィクトールに寄りかかり吐息を零すと共にそっと抱きしめ返す。

 落ち着いた少女の様子を見て、ダニエルはもう一度ゆっくりと紫煙を吐き出した。

「しかし、タイミングよく駆けつけてくれて助かったよ。よく来たなお前ら」

「不審な動きをしている者がいるという情報は元々あったんだが、その場所に二人が行ったと聞いてシュミット大将と追いかけたんだ。白煙が目印になった。感謝する、ダニエル」

 まぁ狙ったしな、とダニエルは当然のように頷いた。

「成功して良かったが……ちなみに分かってなさそうなエリノア。お前に説明してやるとだな、あの敵の魔法と俺の魔法がぶつかり合って出来たもんだ。同じような属性の組み合わせでも、必ず今回と同じ現象は起きるわけじゃねェし、全く属性が異なるパターンでも同じ現象が起きることもある。覚えといて損はねェだろ」

 思いがけない場所での魔法の指導になるほどと頷いて、エリノアはふと首を傾げた。

「あれ、『二人で』来たの?」

 確かにタイミングは近いが駆けつけた時間には開きがあった気がしたのだ。陰から牽制するような状況にもならなかったことを考えると疑問が残る。

「アルムスター少佐は馬を駆けさせるのがとても上手いんだよ」

 エリノアの問いに、とヴィクトールは苦笑を浮かべた。

「僕ではとても敵わないくらいでね。全然追いつけなくて……けれど、その速さのお陰でエリノアが無事で済んだ。ありがとう」

 レオナルトを振り返り、ヴィクトールは小さく微笑む。

 ダニエルとエリノアが此処に向かったことを聞いたとき顔色が変わったヴィクトールの姿を思い出し、レオナルトはいえ、と短く応えて静かに目を伏せた。




 森の中を駆け抜け、草原を越えてきた襲撃者たちは、息も切らせないまま窪地の陰に滑り込んだ。一人が駆けてきた後方を素早く窺ったが、追手の姿は見つけられなかった。罠を警戒して追わなかったのだろう。敵ながら懸命な判断である。

「此処まで来れば問題あるまい」

 土手を滑り降りた男は、仲間の容態を見る男へと声をかけた。剣を魔法をかなりの高水準で使いこなす軍人を相手取っていた男である。衣服はところどころ切り裂かれていたが、意識のない仲間二人を担いで逃走してきた今も、余力は充分あるようだ。仲間の外された関節を嵌め直し、手早く包帯を巻いて応急処置を施している。

「くそ、やはり罠だったか」

「さてな」

 苦々しく吐き出された仲間の言葉に、男は曖昧に返した。仰向けに寝かされた重傷の仲間の傍らに立つと、その腹部へとてのひらを当て応急処置用の回復魔法の呪文を唱える。

「罠かどうかは断定できないが、急ぎ報告しなきゃならないな。情報の精査も必要だ」

「断定できないと何故言える。護衛がいたのだぞ。我らは嵌められたのだ」

「だが、情報のとおり確かに標的の実力は取るに足らないものだった。あの騎士の口振りからするに、情報が交錯している可能性もあるということだ」

 ぐ、と仲間が言葉を詰まらせる。

「ならば、人員を再招集しなければなら……」

 反論を飲み込み、次の策を提案しようとした仲間の言葉が不自然に途切れた。

 なんだ、と言いかけた男は言葉の代わりに血の塊が吐き出し絶句する。落とした視線の先、横たえられた仲間の胸元には、いつの間に現れたのか判らない――いや、紛れも無く『唐突に』そこに現れた透明なナイフが、心臓に真っ直ぐに突き立てられていた。

 そしてそのナイフは、自分の胸にもまた同じように突き立てられていた。

 力を失った男の身体が横たわる仲間の上に崩れ落ちる。

 襲撃者たちの心臓へと等しく突き刺さっていた透明なナイフは、土手を滑り降りる風に溶けるようにふっと掻き消えてしまった。

 ただそこに残された男たちだけが、胸の傷口から鮮血を流し絶命していた。




「危うかったそうだな。死んでは元も子もあるまい」

 薄暗い部屋で初老の男のぼそぼそとした声が聞こえた。部屋の一角を照らすのは、机上に置かれた一つのランプの明かりだけだ。部屋を見渡すことはおろか、締め切った扉の近くに立つ男の顔は闇に紛れ判然としない。

「死なせる心算はなかったと思いますよ、『彼』もね。でも間に合って良かったとは思いますよ。情報をありがとうございます」

 耳障りの良い柔らかな若い男の声が初老の男の声に応える。

 椅子に腰かけまま小さく会釈した際に、その青年の整った人形のような美貌がランプの光に照らし出される。絶やされることがないと言われる笑みで、変わらず青年の表情を彩っていた。

「礼には及ばん。多少順序は変わったが、方針は変更なしだ。首尾はどうだ?」

「ええ、抜かりなく。今頃は死体になってますよ」

 穏やかな口調で、青年はそう言った。

「手筈は整っているな?」

「夜陰に乗じて始末させます。既に手の者は出発させていますのでご安心下さい」

「ならば良い。お前が出立した以降は連絡が取り難かろう。早馬にも手の者を潜り込ませておく。何かあれば存分に使え」

「お心遣い感謝しますよ、ザウアーラント殿」

 闇の中で影が身じろぎする。やがて影の中にいた男は小さな蝶番が軋む音だけを立てて部屋を後にした。

 ランプの中の炎がちろちろと揺れる。

「第一大隊の隊長にはもう少し頑張って貰わなければ、ね」

 部屋に残された青年は背凭れにぎしりと身を預ける。

 ランプの灯りに照らされた手紙、その封蝋に目を留め、青年は口元にうっすらと笑みを浮かべた。

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