10:暁撫子を散らしたのは(1)
「合図をしたら、跳んで剣を抜け」
ダニエルが言い終わらないうちに、突然生じた濃密な魔力の気配に肌が粟立つ。
「二時の方向に跳べっ!」
振り返る間も無く指示された通りにエリノアは二時の方向へと飛び込むようにして跳んだ。直後にぞくりと悪寒が走る。だが、それは背中側ではない。跳んだ直後に感じたそれは右手の方からだった。
キン、と刃がぶつかり合う音が背後から届く。受身を取りながら右手で腰の剣を抜き、口に入り込んだ土を吐き出しながら振り向けば、ダニエルが黒ずくめの人物の刃を跳ね上げたところだった。それが右手側から感じた悪寒の主だったのだろう。軌道を逸らされバランスを崩したかに見えた襲撃者だが、簡単に剣を取り落とすようなことはしなかった。それどころか右手に握られた剣が逸らされ空いた空間に、いつの間にか左手に握られた小剣を一閃させている。
「ぼーっとしてんな! もう一人いるんだぞっ」
「っ!!」
怒号よりも先に、エリノアは咄嗟に地面を蹴る。脇腹を浅く掠めて、ナイフが過ぎる。ひりつくような痛みが脇腹に走った。身を捻るエリノアのマントがはためき大きく切り裂かれ、双方の視界を阻む。けれど、「敵」はそれで足が止まるとは思えなかった。
着地するよりも前に前に身を屈め、横向きに地面へ叩きつけられるように落ちる。その上をナイフが過ぎるが、続いて繰り出された膝蹴りからは避けられず、エリノアは衝撃を諸に受けて地面を激しく転がった。
遅れて吐き出そうとした息が、咳となって零れる。くの字に体を折り曲げ咳き込んだとき、エリノアの視界は明滅していた。
「凍てつく深遠、森は我が友」
「逃げろっ!!」
呪文を唱える声は、ダニエルと組み合っていた方からだ。エリノアに蹴りを入れた襲撃者は後ろに大きく跳んで、距離を開けていく。魔法の効果範囲から逃れるためなのだろう。ダニエルは長剣で相手の刃を押さえていたが、口を封じるには手が足りない。
エリノアもまた咄嗟には動けない。脳震盪を起こしていたのか、衝撃ゆえにか腕にも膝にも力が入らなかった。ならば、選ぶのは「避けない」という選択肢だ。
「月下の抱擁、委ねる揺り籠」
脳内で瞬時に魔力構造を描き、短縮させた呪文を紡ぐ。力の入らない手のひらではなく、こめかみからほんの少し浮いただけの空間に魔力を集中させる。通常ならば手のひらの中央に魔力を集中させるのだが、それは其処に集中させ易いから、というだけの話だ。だが、他の場所に魔力を集中させるのは、手のひらのそれとは比べようも無く難しいということでもある。
「抱く零下、荊棘の」
出来もしないことをとでも思ったのか、嘲笑めいた笑みが、呪文を唱える襲撃者の口元に浮かぶ。
ダニエルの放つ灼熱の炎が周囲を焼き尽くすのが先か。
襲撃者の放つ氷の蔦がエリノアとダニエルを絡め取るのが先か。
エリノアの防御魔法が発動するのが先か。
「爆ぜろ灼炎っ!!」
「氷蔦、走れっ!!」
「包めっ!」
声は同時。
けれども、そのいずれでもなかった。
凝縮された魔力がぶつかり、爆発するような音と共に、白い煙と共に爆風が周囲を蹂躙する。魔法ならば概ね弾き身を守るエリノアの防護の魔法もまた、発動した手応えはあった。だが、なぶる様な爆風は動けずにいたエリノアの身体を容易く吹き飛ばした。為す術も無く再び地面に叩きつけられたが、蹴りを喰らったときよりは遥かに衝撃は軽い。
「立てるか?」
白煙の最中、耳元で囁かれた声にびくりと身を竦ませるが、それがダニエルの声だと気づいてエリノアはほっと胸を撫で下ろした。既に指先にも足先にも感覚は戻ってきていた。小さく頷き、何とか自力で起き上がると、ダニエルについて道から外れた木の陰に身を滑り込ませる。
「くっそ……なんだ、今の。お前、何で発動なんぞしくじってんだっ」
「いや、俺はちゃんと発動した手応えあったぞ……?」
ぼそぼそとした会話が白い闇の向こうから届いてきた。彼らと同様にエリノアにとってもまた今の現象は不可解なものだったが、だからといって今は説明を乞う時でもあるまい。音も立てずに立ち上がったダニエルが無言で白煙の中に身を躍らせる。その後ろ姿を、エリノアはやはり無言で見送った。
しばし、じっとしているとやがて穏やかな風が吹くに従って、緩やかに白い煙が流れ視界が開けてくる。身を捩ると茂みの合間から二人の襲撃者の姿が見えた。
「ちっ、奇妙な真似しやがって」
舌打ちと共に、一本しか握られていなかった手の中に、新たに二本のナイフが現れる。
「ったく話と違うじゃねぇか」
(話と、違う……?)
何の『話』なのか。
ダニエルとエリノアのどちらが狙いなのか。どちらもが狙いなのか、無差別だったのか。
拉致などではなく殺す心算であるだろうことは薄々察せられたが、けれどその意図は全く予想がつかない。
襲撃者の言葉に訝しみながら、エリノアはそろりと立ち上がる。右手に携えた剣はいつでも応戦出来るように構え、相手がナイフを投げてこようともすぐさま避けられるように足の位置を変える。
だが、今まさに三本のナイフを投げ放とうとしていた男から、ごきゅ、と筋肉と骨が軋む歪な音が響いた。見れば、腕を本来ならば有り得ないような方向に折り曲げて苦悶の表情を浮かべ、尚もその腕をダニエルに拘束されている。白煙が晴れる前に動いたダニエルの足元には、もう一人の襲撃者が昏倒し地面に臥せっていた。
これで二人の襲撃者の片をつけたことになる。
だが、此方を見るダニエルは目を見開き、エリノアを素通りしてその背後へと注がれていた。胸を撫で下ろしかけたエリノアは、身体の向きを反転させながら木の陰から飛び退る。目前に構えた剣が、済んでのところで襲い来る白刃を跳ね返した。
済んだ音が二つ、響く。
一つは今しがたの、もう一つは剣戟の音はダニエルの方から聞こえたものだった。あちらでも未だ遣り合っているのだろう。先程腕を折られた襲撃者が反撃したのか、それとも新たな襲撃者が現れたのか。それを判別する余裕はエリノアにはない。
何故ならば、エリノアの元にも新たな襲撃者が現れていたからだ。
(もう一人……いいえ、「二人」……!?)
土に触れたつま先で咄嗟に地面を押し返し、流れる身体の軌道を無理矢理ずらす。横手から突き出され腕を浅く裂いた小剣は、そうしなければエリノアの体を串刺しにしていただろう。
「慟哭の緑、攫うは峻烈、唸れっ」
眼前に生み出した指向性の暴風で一人のたたらを踏ませる。最初にその刃を弾かれた方はその風を避け、右手側から距離を詰めてきた。
エリノアはどちらからも距離をとるように、左後方へと跳ぶ。
だが、軽くその背に当たる乾いた感触。
すぐさまそれが木の感触だと察したが、既に遅い。目の前に迫り来る白刃に対して小剣を構えたが、捌き切れる自信は余り無い。
呪文を発動させるにも、時間が足りない一瞬の出来事。
襲撃者の左右の手に握られた二本のナイフに、小剣一本で対応出来ると思える程、エリノアは自分の腕を過信していなかった。
このままでは、やられる。
右手のナイフを、エリノアの小剣が受け止める。と同時にその重さでエリノアの動きを封じてくる。その上で遅滞無く繰り出された左手のナイフには、対処の仕様がない。
短いその刃が喉元に突き立てられると思った刹那――滑り込んだ影が、エリノアに迫り来る刃を押し返していた。




