01:突き立つ矢は紅く
頭の中で、いち、に、さん、と数える。
いつになく緊張していたにも関わらず、慣れた要領ですぅっと意識が明瞭になるのを感じた。少女はそのまま呼吸を一定のリズムに保ち、胸の前で両のてのひらを合わせる。
てのひらの間で生まれた微かな熱を感じ取りながら、合わせた左右のてのひらをほんの少しだけ離し、その僅かな空間で魔力を魔法へと組み立てていく。
視線は真っ直ぐ前を向いたまま――数十メートル先にある目標を捉えたまま逸らすことはない。
一方、少女は意識を自分の頭の中に構成されていく魔力構造へと集中させていた。
学校で習ったとおりの綺麗なイメージ図そのまま、目には見えない筈の魔力の流れを肌で感じ取りながら意識の中で織り上げる。
学校で習ったとおりに行うならば、この後は詠唱と共に左右の手の間で生まれた魔力の形を崩さぬように慎重に、弓を引くように手を広げ矢を番えるような形をとる。そしてそこに具現化する炎の矢を、実際に弓でそうするように目標へと解き放つ。
けれど此処は、学校ではない。
すう、と息を吸い込む。
「灼熱の揺らぎ、紅の矢」
短く魔力の構成を促す言葉を紡いだ少女は左手を真っ直ぐ前方へ――目標のある方へと突き出し、標的を指差す。
左手よりもほんの少し上の空間が陽炎のように一瞬だけゆらりと揺らぎ、炎の矢が現れる。艶やかな橙と赤を混ぜて溶かしたような炎の矢、その矢じりが炎が爆ぜるように小さく渦を巻いた。少女の腕に熱を伝えることはない。ただ魔力の流れだけを共有し合っているだけだ。その波動も秘めた熱とは裏腹に、とても静謐な流れを感じた。
これなら行ける。
「穿て」
一言だけ、呟かれた言葉。
けれど呟いた瞬間に炎の矢は空気など存在しないかのように真っ直ぐに、標的へと突き進む。
標的に突き刺さるように、灼熱が標的を舐め尽くし燃え上がる。
声は、上がらない。
吹きつける風に弄られる炎が火の粉を散らし、炭と化した標的が崩れ落ちる。
一定のリズムを保っていた呼吸も緊張が解けると共に乱れ、少女は肩で大きく息を吐いた。気持ちが落ち着いてみれば、未だ胸の鼓動だけが早い音を立てている。
その少女の背後から、乾いた拍手の音が響いた。
「ありゃ、当たった瞬間に頭吹き飛んだなァ」
振り返れば、軍服の男が感心したように頷いていた。気楽な口調は実戦の最中に紡がれるものではなかった。否、この男であれば実戦でも今このときと同じようにふざけた口調で部下に指示を出すこともありえるかもしれない、と少女は思った。実際はどうなのか知らないが、少女が知る限りでは真面目な様子を見たことはない。
少なくとも此処は学校ではないにしろ実戦の場ではない、軍の敷地内にある訓練場の一角だった。標的も自立可動式ではあるが、ただの人型の的である。
少女はかっちりとした動作で軍服の男に向き直り、背筋を正した。
軍服の男は視線を的から少女へと転じる。
ふざけたようなニヤついた笑みを浮かべている軍服の男は、軍服を適当に着崩した挙句伸ばした無精髭をさすりながらという出で立ちだった。これが上司だと思うと、悲しくなってくる。
「ま、及第点だな。エリノア・クロイツ、合格」
少女の背後に立つその軍服の男よりも更に後方で、緊張した面持ちで見守っていた同年代の少年少女たちが、その言葉にほっと胸を撫で下ろしたのが少女にもよく分かった。
少女も自分の番が来るまでは、その同僚たちと同じように訓練を行う者を見守っていたからだ。
そしてそれが単に「的を当てることに成功したから」という安堵ではないことも知っている。
少女――エリノアを含め、上官である合格を言い渡した男以外に此処にいる人間は皆、ラグジエント王国軍に入隊したばかりの新米兵士なのだ。その中でも魔導部隊に配属されることが決まっている魔導士のみが、此処にいる。
これからひと月程はその魔導部隊に配属する新米兵士を集めての訓練が続けられることになっていた。
今日はその新米魔導士の実技の実力を再確認するために集められたのだ。
こんな出で立ち上官ではあるが、紛れも無く新米魔導士育成の実技担当教官だった。
ふと含みのある表情でエリノアを一瞥した教官は、背後にいた新米魔導士たちに視線を向けて言い放つ。真正面からその視線を受け止めたエリノアでさえ気のせいかと思う程、一瞬の含みだった。
「確かに全員合格だが、これくらいは当然だ。コイツにも言えることだが、全員起動をもう少し早くしなきゃ実践じゃ使えねぇよ。ちんたら魔法構成を組み上げてるうちに、騎馬隊どころか歩兵にすら突っ込まれるぞ」
反論の声は上がらなかった。
けれど教官はいぶかしむ気配を敏感に察したらしい。
「なんなら次は騎馬隊から一人連れてきてやるさ。その身で体感する方が分かり易いし、危機感も持てんだろーよ」
やれやれといった口調で男は大げさに溜息をついてみせる。
エリノアだけではなく、後方で見守っていた新米魔導士たちも背筋を伸ばし、直立不動の姿勢で男の言葉に耳を傾けていた。しかし、この中で戦場の怖さを知っているものがどれだけいるのだろう、とエリノアはふと思う。
男の言葉は口調こそふざけたままではあったが、その内容は事実であり、戦闘において魔法を使う者たちの生きるか死ぬかの分水嶺を示しているのだ。
魔法の起動の早さの重要性をしっかりと認識しているのは、果たしてこの中にどれだけいるのだろう。
学校を卒業したばかりで、誰も彼もが――勿論エリノア自身とて学生気分から抜け切っていないような気がしてならなかった。