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月の雫  作者: 空雛あさき
第2章 恋理の羽音、黒の諷示
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05:落胆の背に

 エリノアが書庫に戻ると扉に鍵が掛けられ、閉ざされていた。イレーネは作業を終えて退出した後なのだろう。

 落胆の思いは隠せない。

 心の裡で巡らせるだけでは到底治まりがつきそうになく、愚痴を聞いてもらって多少なりとも昇華したかった。今回のことをけしかけたのはイレーネなのだから、自分の愚痴を聞く程度のこともまたけしかけたが故の義務だろうとエリノアは勝手に納得する。明日また書庫で会えるなら、その時でも構わないとも思った。誰彼ともなく、衝動的に吐き散らしたいわけではないし、元から自身の悩みを他者に打ち明けることなどエリノアは至極少なかった。ヴィクトールに対してさえ、悩みを告げることには気後れがある。自分を引き取ることだけでも迷惑をかけたかと思うと、これ以上寄りかかって負担になるようなことはしたくなかった。

 兎にも角にも鍵が無ければ書庫の扉は開けられず、そのままでは中断していた調べ物も再開出来ない。

 肩を落とし、その鍵が保管されている場所へと少女は足を向けた。その途中で偶然にも今最も会いたくないであろう人物に遭遇してしまい、反射的に渋面になる。

 会いたいと思った時はその姿を見つけることすら難しかったのに、会いたくない時に限って遭遇してしまうのは一体どういうことだろう。


 四角く切り取られた廊下の窓から、鮮やかな夕日が光と影を静かに落としていた。エリノアが影の中で足を止めたのは表情さえ瞭然とさせたくない、密かでささやかな抵抗だ。

 陽が大分傾いたこの時刻、行き交う人の数はそう多くは無い。通り過ぎる人は皆一様に急いでいる様子で、足を止めている者は今この瞬間ではエリノアと『彼』の二人だけだった。

「確か、この時間は演習場だと伺っておりましたが」

 妙に乾いた声音はエリノアの口から皮肉となってするりと零れ落ちたけれど、顔の筋肉は強張っている。心に触れられなければ、相手が自分のことを一介の軍人として扱ってくれさえすれば、何事もなくこの場は切り抜けられるとエリノアは思った。

 相手が鼻白んだ様子はなく、レオナルトの浮かべた厳しい表情はぴくりとも動かなかった。

「シュミット大将宛ての伝言でしたら私にはお受け出来ません。申し訳ありませんが、他の手が空いている者にお願いします」

「なぜ、泣いていた」

 エリノアの言葉を完全に無視した淡々とした不躾な問いが返り、少女は眉間に深い皺を刻み口を噤んだ。

 私的な場では無く、公的な場に相応しい対応を少女はした心算だった。そしてこのままこの場を切り抜ける心算でもあった。

 ところがそんなエリノアに対して、至極私的極まりない返答されるとは思ってもみなかった。エリノアを逃がさないために敢えて私的な問いをぶつけてきたのかどうかは、エリノアの知るところではない。ただ、レオナルトは公私混同をするような人間ではないとエリノアは思っていただけに、少しだけ――否、かなり落胆したことは否定できなかった。

 公私混同せずにはいられないのが自分に対してのみであったとしても、そんな淡い期待を抱いた自分に反吐が出る。エリノアは何処に在っても公正な人間でありたかったし、あろうとしていた。そうしてきた心算だった。

 軍の中に在籍している内は、自身の感情さえ不要だと思ったこともある。

 ひとつの駒であることは軍にとって、ひいては義兄・ヴィクトールにとっても利点となるのだろう。感情を挟めば、それは自身の弱さになるとエリノアは思っていた。

 弱みなど、持っていたくも、ない。

「泣いてなど」

 だから強がったのは少女にとってごく自然な反応だった。

 かたい声で突き放すように毅然とエリノアは答えた、心算だ。その意気に反し、語尾が僅かに震える。

 頬を伝った温かな滴が、涙だとは思いたくなかった。感情を殺せていない証など、無用の長物である。

 たとえ、流れた滴の跡が残っていたとして、レオナルトがそれを知ったとして、一体彼は今更如何したいというのだろう。

 少なくとも現状のエリノアにとって元凶となった男、しかも彼女のいる男に心配されたところで嬉しいと思える筈もない。ただ惨めなだけだ。挙句、弱さを露呈させられる厄介な人物でもある。

 込み上がる嗚咽を飲みこむようにして噛みしめた歯が、ぎり、と小さく鳴った。

 僅かに俯いたエリノアは、震わせた全身で青年を拒否をしていた。ようやうそれを悟ったらしいレオナルトは小さく息を飲んだようだった。

 僅かにエリノアから逸らせた視線はどこを見るでもなく、言葉を探しているかのような風情でもある。口数が元来多くはないレオナルトが、必死にかける言葉を探して逡巡しているのだろうとは、今のエリノアに考える余裕などなかった。

 激情が渦巻くようなエリノアの感情がようやくほんの少しだけ落ち着いてくるまで、二人は終始無言のまま其処に立ち尽くしていた。

 先程の女性は、とレオナルトが口をひらく。

「魔導士なので知っているかもしれないが、フルーリー伯のところのご息女、サラ中尉だ。名簿を見た限りでは、今回のドラゴン捕獲作戦でエリノアは彼女の下につくことになっている筈だ」

 いったい何を言い出すのかと、訝りながら無言で先を促す。嫌な予感しかしない。

「彼女に結婚を申し込まれた。せめて視察でここを離れる前に、婚約だけでもと」

 嫌な予感は、的中だ。

 同時に頭の中の理性のロープがぶちぶちと盛大の音を立てて、引き千切られていく気がした。

 もう、やっていられない。

 自分の感情をそんなにしてまで逆撫でしたいのだろうか。

 それとも男は、レオナルトは、ここまで察しが悪いということだろうか。

「それは、オメデトウゴザイマシタっ!!」

 ヤケクソに言い捨てたエリノアは、今度こそレオナルトの顔を見ぬようにして、廊下を全速力で駆け抜けた。


「ほー、そんな面白い話が、ねぇ」

「レオナルトさんも中々鈍いですものね」

 くすくすと声を殺した男女の笑い声が、閉ざされた室内の隅に響く。

 そうそう、と行儀悪く机に腰掛けた女は笑いながら目尻に浮かんだ涙を指先で拭った。

「それからこれは調べてくれって言われてたモノ」と、涼やかな声と隙のない仕草で懐から取り出した四つ折の紙片を男の前に滑らせた。

 開き中身を確認した男は紙片を、机の上に置かれたランプの炎に近づける。火は瞬く間に紙片に燃え移り、あっという間にただの炭と化した。

「で、あっちの件のブツは掴んだか?」

 炭と化した紙片にはもう興味がなくなったかのように、男は執務机に備え付けられた椅子の背に寄りかかり、軋んだ音をたてる。

 ランプが映し出す影がゆらりと動く。

「確認はできましたが、押さえるのは無理です。監視と防護の魔導式が張られてました。触っても解除しても気づかれるでしょうね。魔導式にはオリジナル要素が組み込まれているので解析にも時間がかかりますし、解析に戸惑っている間に別パターンをかけ直されるのがオチじゃないかしら。それに物が物なだけに、迂闊に持ち出せませんよ。何処に保管しておくというんですか?」

「下手に持ち出せば、魔力汚染か」

「それもブツの大きさからいって、王都全域」

 すまし顔であっさりと告げられた効力の及ぶ範囲に、男は表情を固くした。

 魔力障壁を張らなければ魔導士であっても命が助かる保証はない。無論、そんな力がない兵士や民間人は誰も助からないだろう。

「使用される前に、此方が秘密裏に持ち出すべきか。ブツへの魔力障壁をつくることは可能だが……さて」

「少なくとも用途に関しては偽装されているものの」と言い置いて、女は男に耳打ちする。

「猶予は無さそうだな。だが、それを何処で使うつもりなんだ、奴は」

 耳打ちされた時点で、想定される場所は脳裏に幾つか挙げられている。しかしどれも確証を持てる段階ではなく、一度の失敗は敗北を意味する。そしてその敗北とは、男が望まぬ未来をも示す。

 焦りの滲んだ表情で、炎がゆらゆらと揺れるランプを見つめた。

 男も女も、息をつめて思考を巡らす。

 ゆらり、ともう一度大きくランプの灯が揺れた。

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