03:伝える理由
「ねぇ、エリノア。もう一つお願い聞いてくれる?」
イレーネの面白がるような口調に、エリノアは過去の記憶から現在へと思考を引き戻した。
ちらりと彼女の姿を見れば、やはり顔を本から上げることなく頁を捲るか、手元の紙に書き付けるかを絶えず続けている。相変わらず視線をくれもしない。彼女のそんな性質に慣れたのか、不快に思うことはなくなったがときたま寂しくもあった。
「私が出来ることなら、だけど」
目を向けていても互いの視線がぶつかることは無いだろうと思うと、どこか虚しさを覚え、エリノアは再び自分の手元に開かれた本に視線を落とした。僅かに視線をずらせば、いつの間にか調べ終わった資料が左脇に積まれていた。別のことを考えながらでも調べ物くらいは出来るようになったのは、間違いなくイレーネのお陰だった。彼女は何かしら作業しながらであればよく喋る。が、それを聞くことに集中すると、自分の作業はまるで進まなくなるのだ。
ペンを走らせる。やはり考えごとをしている時よりは、話を聞き流しているだけの時の方が作業の速度は遥かに速い。頁を繰る手も、速くなった。
「簡単よ。伝言をお願いしたいだけなの」
「それなら自分で言いに行けばいいじゃない」
「あら、レオナルトさんへの伝言なんだけど」
「それをよりによって私に頼むのね」
動揺を押し殺したエリノアの手が、小さく震えた。微かに乱れた字が少女の心の裡を如実に表していた。トーンダウンした声を取り繕う気にもなれない。
先程の今で、よくもそれが言えるものだと思う。しかしそれを彼女は至極小さなことだと哂うだろう。人の心の機微など自分には分からないから、気にしないし気にしようともしないのだと。厭味ではないからこそ、余計に性質が悪い。
「エリノアにだから頼むのよ。伝言は伝えてくれないと困るけど、貴女の想いを伝えるか伝えないかは貴女の勝手よ。伝言は頼まれてくれるの?」
溜息が零れる。断ったところで彼女は特に困らないのだろう。ふと思いついた故の、頼みごと程度の認識でしかない。自分が行かねば、彼女が自分で伝えに行くだけなのだ。逡巡して、エリノアは僅かばかり疲労が滲んだ顔を上げた。
「……良いわよ。内容は?」
「研究所に来て、所長に会って欲しいんですって。出来れば明日の昼までには、だそうよ。それまでは確実に研究所に詰めているそうだから」
「じゃあ今日も家には帰ってこないのね……」
所長とはつまりヴィクトールのことである。ここ数日も家に帰ってきたという記憶は、無い。他にも泊り込みで仕事をこなしている人も多くいるから、ヴィクトールだけが格別忙しいというわけでもないのだろう。
気づけば手の甲に顎を乗せ肘をついたイレーネが此方をじっと見ていた。呆れたような表情だった。
作業の手を止めてまで此方を見ていることに、エリノアは軽く驚いた。
「会いに行けばいいのに。寂しいくせに」
「仕事の邪魔をするわけには行かないわ」
会いに行くことがさも当然であるかのように言うイレーネに、エリノアは頭を振った。
でも伝言はちゃんと伝えるわよ、と椅子を引いて立ち上がる。書き掛けの紙は軽く息を吹きかけて乾かすと、くるりと手際よく丸め、積んだ本の横に行儀良く並べて置いた。引いた椅子もきちんと机の下に押し込んで仕舞う。
そういったエリノアの些細な動作に、しつけがきちんとなされた過去をイレーネが垣間見ているなど知る由もなかった。
「あら、もう行くの?」
「明日の昼までには会いたいというなら、早めの方がいいでしょう。先に探してくるわ。私が戻ってくる前に書庫を出るのなら」
「鍵を閉めておいて、でしょ。分かったわ。行ってらっしゃい」
開いた扉から差し込む光が、そろそろ陽が傾き始めていることを教えてくれた。眩しさに薄く目を細めて、イレーネは出て行く少女にちいさくひらひらと手を振り送り出す。
扉が閉じられ外の光が遮られると、さて、とイレーネは流れるような動作で立ち上がった。
「邪魔者もいなくなったことだし」
大きな机をぐるりと迂回し、書架の一つにイレーネは歩み寄った。視線だけで目的の本の在り処を探すと、褪めた装丁の本を取り出す。
他に人がいない間に調べたいもの。それは親友であろうと、調べていることすら察っせられない方が良いということなのだ。
イレーネが取り出した本は、鉱石の詳細を纏めた一冊だった。
ぱらぱらと捲り、ある頁でその指が止まる。イレーネはふうん、と褪めた表情の瞳を細めた。
「『月光石』、ね」
記述をざっと読み解く。
別名「マナの御石」とも呼ばれる淡い光を放つ白い石である。希少性が高く、人体に触れるだけで容易く融解するが、本来の硬度は非常に高い。また、存在するだけで絶えず強力な魔力を放出し続けるため、多量に存在する場所、またその付近では魔力防御の障壁を張り巡らせた魔導士であっても危険な鉱物だ。魔力の触媒としては大変優秀であり、幾つかの実験にも用いられたことがあると記されていた。
魔力は通常、空気中に存在している。勿論それだけであれば人体に有害であることはないし、密閉空間でもない限り魔法の使い過ぎで、魔力が枯渇することも無い。だが、高濃度の魔力が狭い空間に存在、もしくは何らかの要因によって一定の場所に滞留する場合は話が別である。
高濃度の魔力は人の体の内と外、両側から破壊していくのだ。
強力な魔力を放出し続ける月光石を取り扱う場合、外部にその魔力が漏れ出さない為の結界と、扱う者を守る為の結界が必要になる。誰しもが簡単に扱える鉱物ではない。
「当然一般の流通ルートに乗ることはまず、無い。ならば何故、月光石が放つ魔力がこんなにも『臭う』のかしらね」
数日前にイレーネは偶然研究所で月光石を見た。誰かが研究の途中で手を止めたのだろうか、厳重に結界が張られた小さな空間に置かれていたのだ。そのときに嗅いだ月光石の『臭い』はしっかり覚えていた。
白磁の頬にかかる白銀の髪をさらりとかき上げる。肌の表面に薄く張り付くような魔力の名残が気に掛かる。
肌に張り付くような魔力の『臭い』は月光石のそれと同じだった。
常人は気づかないだろう。これを感知できるのは個々人がもつ魔力の高さに拠るものでも、魔法を扱う能力に拠るものでもない。魔力探知の魔法もあるが、それとこれとは別物だ。微細な魔力であろうと感知・知覚できるのがイレーネの『血』が持つ能力だった。知る者はいない。勿論エリノアとて例外ではない。
もっとも、エリノアに言う気にはなれない。エリノアが思っているようにイレーネもまた彼女のことを友人だと思ってはいるが、この一件に明確な答えを得るまでは尚更言えないと思った。何故なら――
「疑わしきは、一番濃厚な『臭い』のするエリノア、かしら?」
短くは無い付き合いの中で、ずっと疑問に思っていた魔力の残滓。その正体が掴めた。結局、それは極めて危険性の高い、鉱物のものだった。
その魔力が絶えずエリノアから臭うなど尋常である筈が無い。
そして、もう一つの誰にも知られずに調べたかったものは。
「……まさか、ね」
取り出した薄い本を捲る手が止まる。少女の淡々とした黒い瞳に、僅かに深いな色が滲んだ。
イレーネは何かを紙に書き留めると、小さく折り畳み、胸の内側のポケットに滑り込ませた。
そして鉱物の本を書架に押し込み椅子に戻り座ると、少女はエリノアが出て行く前と変わらないように仕事の調べ物を再開したのだった。




