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月の雫  作者: 空雛あさき
第2章 恋理の羽音、黒の諷示
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02:書庫の遭遇

 この日、書庫で過去の文献を漁ることになったエリノアが同窓生のイレーネと一緒になれたのは幸運だったと言っていい。一人で調べ物をするにはそろそろ精神が参ってしまいそうな気がしていたところだった。その上、イレーネは士官学校入学以来の親友である。あの夜聞いたレオナルトの言葉が未だ頭の中で渦巻いているせいで妙に気を張っていたエリノアにとって、気心知れた友人は安らぐ存在でもあった。イレーネにとってはどうなのか知らないが、邪険にされた記憶もない。

 書庫の扉の前で彼女と鉢合わせしたエリノアは笑みを浮かべ、イレーネは極めて淡々と、仲良くその扉をくぐったのだった。

「イレーネは何を調べるの?」

 持参した紙の束を中央に鎮座する机の端に置き、すぐさま書架に向かったエリノアは肩越しに問いを投げかけてみた。がさごそと大きな紙を広げる音の合間に、イレーネの涼やかな声が混じる。

「魔力のある薬草よ。今度のドラゴンの捕獲に使えるかもって話で。あ、そこの深緑の表紙の本とって。右端から五番目の。そう、それ」

「捕獲に薬草?」

 本を取ろうとして書架に掛けた梯子をのぼったエリノアの背に、「運ぶときにどうやって押さえておくかってことよ」とイレーネの声が返った。頼まれた本を引き抜くと、自分が探していた本と共に胸元へと抱え込む。

「あ。あと、もう一段下の分厚い黒の辞典もお願い」

「……人を使うのは相変わらずなのね」

「あら、其処にいるんだもの。『ついでに』取ってくれたって良いじゃない?」

 溜息交じりの苦笑に、悪びれた様子もなくイレーネは笑ったような気がした。片腕で大量の本を抱えたままでは振り返ることも出来ず、結局そのまま首を巡らし頼まれたもう一冊の本を探す。

「イレーネはその『ついでに』が上手いのよね」

 自分のやることさえも『ついでに』を駆使した結果、士官学校時代に学年首位の座をキープしながら論文を出した人間である。体術・武術に関してはからきしだが、その才を買われて士官学校卒業後は軍の魔導研究部門に引き抜かれたという経歴をももつ。軍から直接引き抜きを請うことはそう多くないために、イレーネの優秀さがよく分かる事例となった。

「ええと、黒いの、黒いの」

 左手と胸で挟み込むように抱えていた書物が、その重みでずり落ちそうになるのを堪えながら、エリノアは空いた右手でようやく黒い背表紙の分厚い書物を本棚から引き抜いた。流石に片手では持つことが出来ずに難儀していると、足元から細く白い腕が伸びてきて、落ちそうになっていたその本を両手でしっかりと受け止め、本を手にしたまま引っ込んだ。

 さらさらな白銀の髪が揺れる奥で、漆黒の瞳がじっとエリノアを見上げている。

「貴女の手の大きさじゃ、片手で持つのは無理でしょう? ありがと。あ、もう一冊の方は適当なところに置いておいてちょうだい」

 足元に来ていたイレーネは言うや否や踵を返し、エリノアに背を向けさっさと辞典の頁を繰っている。左腕の書物を抱え直し、エリノアはそろりと梯子を降りた。

「ところで、何か進展はあったの?」

 頁を繰る手を止めずに椅子に腰掛けたイレーネは、唐突に、されどそれが当然の話題であり議題でもあるかのように口を開いた。

 梯子を降りたエリノアは本を机に載せ、その内の一冊を開きながら進展ねぇ、と首を傾げた。

「捕獲用の魔導式は形にはなったのよね。だけど穴が多いし詠唱に時間が掛かりすぎるから、代案の式を用意するか短縮形を探さないといけないって……」

「馬鹿ね、そんなこと定例報告をちゃんと聞いていれば分かるわよ」

 容赦ない一言だった。

 じゃあ何の『進展』なのか。疑問に思い、斜向かいに座るイレーネの顔をちらりと窺えば、やはり目もくれないまま彼女は続ける。

「訊いているのは貴女のことよ。貴女の恋に進展はなかったのかを訊いてるの」

 頁を繰る手の速度は些かも遅れはせず、視線も手元の本からけっして目を離さぬまま――けれどイレーネはくすりと笑みを洩らした。本から視線を外しはしないけれど、その瞳は確かに笑っていた。

「進展なんて」

 言い淀んで、一瞬思い返す。が、進展など特に、ない。

 少なくともあの夜の出来事は進展などではない。寧ろ距離をとられたようにも感じるくらいだ。あの夜に聞いたことをイレーネに話すかどうか、エリノアは逡巡して結局素直に彼女の問いに答えるだけに留めた。

「伸展なんてないわよ。そもそも、ドラゴン捕獲の通達が出た後は見かけてすらいないもの」

「たかが一週間じゃないの。どうせなら捕獲に行く前に会っておきなさいよ。後悔のないように」

 あっさりとそう告げるイレーネに、縁起でもない、とは言えなかった。実際、ドラゴンの討伐で命を落とす人間は少なくない。捕獲ともなれば、その危険度は更に増すだろう。

「会って、今更何を話すっていうのよ……」

 自嘲めいた笑みを口元に浮かべ、エリノアは本のページを捲った。


 エリノアとレオナルトが出会ったのは、凡そ十年前のこと。自分がほんの八歳の子供で、彼は士官学校に通う十五歳の少年の頃。王都で迷子になっていた自分を助けてくれたのが、出会いの切欠だった。

 ダニエルと共に何かと食事に連れ出してくれもしたし、何かと世話を焼いてくれた気がする。ぶっきらぼうでけして甘くないが、それ彼なりの優しさだと気づいたのはいつだっただろう。

 彼に抱いていた「憧れ」や「好意」といった感情が「恋」になったのもいつからなのか、定かではなかった。

 ずっと傍にいた。

 ずっと傍にいすぎて、自分の気持ちの変化にも気づけなかったし、気づかれることもないまま今に至るのかもしれない。レオナルトに自分の気持ちは気づかれてはいない、とエリノアは思う。

 全滅したと思われていた村で唯一生き残ったエリノアは、王都のヴィクトールの元へ引き取られた後、事情をよく知る人々には忌み疎まれてきた。特に貴族や軍人の中には事情を知る者が少なくなく、姿を見られただけで追い立てられたこともある。今でこそそういった扱いを受けることはなくなったが、ヴィクトールによる周囲への説得と、時間が解決してくれたに過ぎない。

 ずっと傍に居てくれたのは義兄であるヴィクトールを除けば、レオナルトとダニエルぐらいしか思い当たる人物がいない。ヴィクトールの家の使用人達も当時は腫れ物を扱うかのように、エリノアに接していたし、ヴィクトール自身もまた若い頃からその非凡な才を買われ、非常に多忙な日々を送っていた。忙しさに追われるヴィクトールよりも、何かと理由をつけて会いにきてくれたレオナルトの方が長く一緒にいたかもしれない程だ。

 暫くして、人買いに誘拐されそうになったときも助けてくれたのはレオナルトであり、それが切欠で護身のために剣術の指導をつけてくれるようにもなった。今でも時間が合えば稽古はつけてくれるものの、互いに空く時間が重なることはごく僅かだ。

 立場は近づいたにも関わらず、距離と心はどんどん離れていくような気がしてならなかった。

 軍に入隊したのは義兄の助けになるためだ。けしてレオナルトに近づきたいという理由ではなかった。が、それでも今までは一緒にいることが出来た想いを寄せる人がどんどん遠くなってしまうというのは、エリノアにとって寂しさが募るものだった。

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