09:探る手のひら
暫くしてギィ、と分厚い扉が軋み重くゆっくりと開く音がエリノアの耳に届いた。
微かな衣擦れの音と共に、よく聞き慣れた声が降りかかる。
「どうしたんだい? エリノア」
柔らかな声音に、名を呼ばれたエリノアは緩やかに面を上げた。
知らぬ間に眠っていたのだろう。どことなく、意識に霞がかったように朦朧とした思考のまま、ぼんやりとした視線を声の主へと向ける。
「あ……義兄さん、お帰りなさい」
僅かに掠れた声でぼそぼそと告げるエリノアの顔を見て、柔和な笑みを浮かべていたヴィクトールの表情がさっと曇った。
「ただいま。本当にどうしたの、顔が真っ青だよ?」
コートを脱いだだけの軍服姿のまま、真っ直ぐにヴィクトールがエリノアに歩み寄る。足元まである長い上衣の裾を翻すヴィクトールの姿を見て、義兄が帰宅したばかりなのだということをようやくエリノアは理解した。
気のせいだと告げるよりも先に、やけに熱いてのひらが頬に添えられた。
否、自分の体が冷たくなっているのだとエリノアはすぐさま悟った。気づけば指先も強張り、意識して力を込めねば膝を抱えた手を放すことも出来ない程だ。けれど頬に添えられたヴィクトールのてのひらを伝い、熱が仄かに自分の体の中に流れ戻っていくような気がした。指先に僅かではあるが感覚が戻ってきたのを確認して、心配そうな瞳で覗き込む義兄にエリノアは「大丈夫」と力なく笑ってみせる。
「でも、血の気が引いてる。何か怖い思いでもした?」
体を起こそうとする榛色の瞳に虚ろさを残す義妹いもうとに手を貸しながら、ヴィクトールは尚も心配そうな瞳のまま問う。
ううん、とエリノアは力なく首を横に振った。
怖い思い、ではなかったと思った。戦に関する情報に驚き、動揺はしたものの『恐怖』ではない。恐怖ではなく、どちらかと言えば今、心に重く圧し掛かっているのは――
「じゃあ、誰かに何か言われた?」
問いを重ねるヴィクトールの言葉に、エリノアは咄嗟には答えられなかった。
正しく、自分を動揺させ思考することすら疲弊させている原因が、レオナルトに言われた言葉だからなのだろう。
『仲間の力は信頼しろ。だが、それ以外では誰をも疑え』
『勿論この俺も、ダニエルも……お前の義兄も、だ』
信頼するに値するレオナルトに言われた言葉を頭の中で反芻してしまえば、自分はどんな顔をして義兄に接すれば良いのか分からなくなってしまった。
そんなことはないとでも咄嗟に言い繕えたなら良かったのだが、義兄に対し、エリノアは偽ることがとても苦手だった。僅かに開いたこの間の後では今更何を答えても不自然な気がしてしまい、エリノアは逡巡した挙句、返答に窮し口を噤んだ。
何故か、レオナルトに言われたことをヴィクトールに伝える気にはなれなかった。
誰かを――誰をも疑えという言葉は元より、戦に関わる情報さえも、だ。軍の大隊長であるヴィクトールならば既知の情報である可能性は非常に高かったが、どこで自分がその情報を仕入れたのかということを知られたくないと思ってしまった。
知られたくないと思った理由は自分でさえも判然としなかった。
色の褪めた唇を引き結び、じっと考え込むエリノアの頭にふと優しく温かな手が乗せられる。変わらず心配そうな表情で真っ直ぐに見つめるヴィクトールの瞳が目に映った。
「義兄さん……」
「人の悪意ある言葉になど耳を貸してはいけないよ。何を言われたか知らないけれど、もし俺の七光りだと言われたなら実力で見返してやるといい」
「…………」
言うことを躊躇ったのは、義兄である自分に関わりある誹謗を受けたせいだと思ったらしい。そういった点で言えばあながち間違いではないだろう。少なくともエリノア自身が侮辱されたわけではないのだが。
エリノアのきょとんとした表情にヴィクトールは、はてと首を傾げた。
「何か侮辱を受けたのかと思ったのだけど、違った?」
安堵の息が小さく零れ、エリノアは今度ははっきりと首を横に振った。
「……ううん。そうね、気にしないことにする」
曖昧に答えにならない答えを告げて立ち上がると、覚束ない足取りでエリノアは廊下に続く扉に向かった。これ以上、どんな顔をして話していたら良いのか分からなかった。ともすれば何もかもを話してしまいそうで、それでいて話すわけにはいかないという思いが裡で鬩ぎあっていた。
「エリノア」
穏やかな声が、ドアノブにに手をかけたエリノアの背に投げかけられる。微かに体を強張らせた少女はそのままゆっくりと上半身だけ捻り、声の主を見る。
言葉少ななエリノアを心配してか、ヴィクトールはやはり未だ気遣わしげな表情から変わらぬままだ。翠玉のような凛然とした双眸からエリノアへと視線が注がれていた。
「僕は、いつでも力になるからね」
「……うん」
――そうだ。
いつだってヴィクトールはエリノアのことを気遣ってくれている。
十年前に壊滅した村で唯一人生き残ったエリノアを助けだし、王都に辿り着くまで命がけで守ってくれたのが他の誰でもないヴィクトールなのだから。血縁関係もない赤の他人である自分を、今現在に至るまで家族同然に接してくれている義兄をどうして疑えるというのだろう。
ぎこちなさの残る笑みを浮かべ頷く少女に、ヴィクトールは幾らか安堵したように微笑んだ。
「じゃあ、あとでいつものハーブティーを部屋に持って行くよ。飲んだら、ゆっくり眠れるように」
ここに来たときから事ある毎に飲んでいる、今は亡きヴィクトールの母特製のブレンドハーブティー。涙を拭い去り穏やかに眠ることができる、おまじないのような飲み物の約束をしてくれるヴィクトールに、今度こそエリノアは心から安堵の笑みを浮かべて頷いた。
開いた扉の間に体を滑り込ませると、少しだけ開いたままの扉の間からエリノアは顔だけ覗かせた。ようやく生気が戻ってきたエリノアの瞳がランプの光に照らされ、穏やかな色を映している。
「帰ってきたばかりなのに、ありがとう義兄さん」
「可愛い義妹のためだからね」
幼子のような仕草をする義妹に、くすくすと笑んだヴィクトールは片目を瞑ってみせた。
「じゃあ、ええと……待ってるね」
落ち着いた声音で告げると、ヴィクトールの見つめる先で軋んだ音を立てて扉が閉じられる。居間にヴィクトール一人を残し、軽い足音と少女の気配が部屋から遠ざかっていく。
きっちりと閉められた扉の内側で、遠ざかる足音を聞きながら何か思案するようにヴィクトールは冷たい色を孕んだ瞳を薄く細めた。




