第零章 港湾倉庫
真壁は、その朝の港の匂いを覚えていない。
潮の匂いも、油と鉄の匂いも、古い網の湿り気も、倉庫街の奥へ入る時に鼻へまとわりつく埃っぽさも、たしかにそこにあったはずなのに、あとから思い返しても何一つ戻ってこない。
思い出せるのは、その場所に来るはずのない人間の名前だけだった。
*
朝九時を過ぎても、九条雅紀は出勤していなかった。
医務院での遅刻自体は珍しくない。夜間の検案が長引くこともあるし、仮眠室で二時間だけ横になって、そのまま別件へ回ることもある。だが、連絡がつかないという報告だけは質が違う。
真壁は受話器を耳に当てたまま、呼び出し音を聞いていた。鳴る。鳴る。切れない。留守番電話にも落ちない。電源は入っている。こちらの呼び出しを認識したまま、出ないと決めて出ていない時の九条は、こういう鳴り方をさせる。
「朝から一回もか」
電話口の職員は、答える前に一瞬だけ息を詰めた。
『はい。仮眠室にもいません。自宅の方も、まだ確認が……』
「もう一度、全部当たれ。ロッカーも車も」
『はい』
切ろうとした時、背後で椅子の軋む音がした。
二階堂だった。今日は広報課の仕事があるはずなのに、朝から捜査一課のフロアにいる。昨夜から湾岸の別件で報道対応が長引いていた、その延長だと説明はつく。だが説明がつくことと、自然であることは別だと真壁は知っている。
「九条?」
真壁は振り向かないまま答えた。
「ああ」
二階堂は一度だけ目を伏せ、それからいつもの無表情に近い顔へ戻った。戻ったが、完全には戻っていない。頬の筋が微かに張っている。
「昨日、喘息ひどそうだった?」
「知らん」
「お前が知らないの、珍しいな」
真壁は答えなかった。答えれば、不在に輪郭がつく。輪郭のついた不安は足を速くするが、判断を鈍らせる。
その時、フロアの空気が変わった。若い刑事が駆け込んできたからだ。紙を持つ手に汗が浮いている。
「第一報です。港湾倉庫街外れの廃倉庫で男性の変死体発見。通報者は近隣清掃業者。成人男性一名、損壊あり」
真壁は顔を上げた。
損壊あり。たった四文字で部屋の温度が少し下がる。
「場所」
紙を受け取り、目を走らせる。湾岸の外れ、使われなくなって久しい小倉庫群の一角。貨物線の跡が残り、今は夜でも朝でも人の出入りが薄い場所だった。
「行くぞ」
二階堂は何も言わずに立ち上がった。止めもしない。理由も聞かない。こういう時の二階堂は、もう広報ではない。言葉を捨てて、現場の顔になる。
車は湾岸へ向かった。
朝の光は強いのに、景色の輪郭だけが薄い。海沿い特有の湿り気が、遠くの建物を白く滲ませている。真壁は前を見たままハンドルを握り、二階堂は助手席でスマートフォンを見ていた。通知が入るたび親指が動く。その動きが妙に速く、妙に空振っていた。
「まだ連絡なし」
二階堂が言った。
「……ああ」
頷けば、二つの話が繋がる。九条が出ていないことと、これから向かう変死体現場を。まだ少しでも無関係の余地があるうちは、繋げたくなかった。
倉庫街に入ると、海の匂いが濃くなった。潮と油と鉄。その下に、甘い生臭さが混じる。現場の近くでしか立たない匂いだった。腐敗ではない。まだ温度を失い切っていない死の匂いだ。
規制線の前には制服警官が立ち、若い所轄刑事が駆け寄ってきた。顔色が悪い。
「中です。かなり、ひどいです」
「身元は」
「まだ。ただ、所持品が一部……」
言い淀んだが、真壁は問い返さなかった。先に見る。順番を飛ばすとあとで必ず狂う。
倉庫の中は暗かった。天井の穴から斜めに朝の光が差し込み、光の筋の中に埃が浮いている。床はコンクリートで、ところどころに水溜まりがある。奥へ進むにつれて匂いが濃くなった。血の匂い。汗の乾いた匂い。吐瀉物の酸い匂い。鉄錆の匂い。混ざると呼吸が浅くなる。
ライトが向いた。
「……あちらです」
真壁は数歩進み、止まった。
そこに、九条がいた。
最初はそう見えなかった。見たくなかったからだ。
衣服は破れ、身体のあちこちに裂創があり、乾ききらない血が床に黒く広がっている。顔の左側は腫れ、唇は割れ、片腕は不自然な角度で体の下に入り込んでいた。それでも、その男が九条雅紀だと分かってしまったのは、長い指の形だった。どこか神経質なほど細く、爪だけは妙にきれいに切っていた、あの指の形。
刑事としての目を押しのけて、幼馴染としての目が顔を出す。
視界の端がじわじわ黒ずむ。
真壁の足はそこで止まったまま、次に出なかった。視界の中心に九条の身体だけがあり、その周りの光も音も一度全部引いた。膝が笑う。喉元で声が暴れる。額で火花が散る。
背後で二階堂が息を呑んだ。直後、鈍い衝突音がした。振り返ると、二階堂が横に積まれていた木箱へ手をつき損ね、膝をついていた。
「……おい」
返事がない。二階堂は口を開いているのに、うまく息が入っていなかった。肩だけが速く上下する。吸っているのに足りない。指先が白い。顔色が急速に抜けていく。
「二階堂」
「う、そ……だろ……」
声が切れ切れで、言葉のたびに喉が鳴った。過呼吸だ、と真壁は遅れて理解した。その理解がようやく自分を現実へ引き戻した。
「座れ。壁使え。ゆっくり吐け」
二階堂は首を振ったが、身体の方が先に壁へ寄った。手の震えが止まらない。立ち上がろうとしてまた膝をつきかける。若い所轄刑事が慌てて近寄った。
「大丈夫ですか」
「いい、近づくな……ちょっと、待て……」
待て、と言いながら自分の呼吸を待てていない。二階堂は胸元を押さえたまま、視線だけで九条を見ていた。その目にあるのは広報の計算ではない。ただ、信じたくないものを見てしまった人間の剥き出しの拒絶だった。
真壁はもう一度遺体を見た。
今度は、刑事の目として戻ってくる。
九条は壁際に半ば寄りかかるような格好で倒れていた。倒れきれなかった形だった。床には血の筋が何本も走っている。一本ではない。最初に崩れた場所があり、そこから這った跡があり、向きを変えた擦れがあり、壁の近くには指先で探るように線を引いた痕がある。
一撃で終わっていない。致命傷を受けてからも動いている。
喉にも痕があった。前頸部に指が入ったような赤黒い圧痕と、顎の下へ擦れた浅い傷。顔の周囲の血の飛び方も妙だった。口から流れた血だけではない。吐瀉を押し戻した時にできる、汚い滲み方が混じっている。
右手は体の下にねじ込まれ、左腕は腹へ回るように折れ曲がっていた。苦痛から身を丸めた形にも見える。だが違った。腹を守っている。最後までそこへ手を戻している。
真壁の喉が、何かを飲み込むみたいに上下した。
「……何だ、これ」
声に出したつもりはなかった。だが横で呼吸を整えかけていた二階堂が、まだ息の足りない声で言った。
「……こんな形で、読まれる側に回るはずないだろ」
真壁はそちらを見た。
二階堂は壁に手をついたまま、九条を見ていた。友人の死に打ちのめされている顔だった。だがそれだけではなかった。九条雅紀という男が、現場で意味を読まれ、傷を並べられ、物語として消費される側へ落ちている。そのこと自体に耐えられない顔だった。
九条はいつだって読む側だった。遺体に残るわずかな違和感を拾い、誰より早く構造へ届く側の人間だった。二階堂にとって、その速度で対話できる相手は一人しかいない。その一人が、いまは床の上で、他人に読まれる対象になっている。
「お前、最後まで一人でやったのかよ……」
その言い方は、広報でも刑事でもない。ただの友人の声だった。
所轄刑事が慌てて言う。
「手袋を、お願いします」
二階堂はその声を聞いて初めて立ち止まった。顔色がまだ悪い。額に冷たい汗が浮いている。だが呼吸だけはどうにか形へ戻していた。戻した先の顔が、今度は逆に危なかった。あまりにも何も出ていない。感情を押し込みすぎて、空白みたいになっている。
真壁はようやく身体を動かした。入り口、窓、割れたパレット、錆びた工具、血痕の散り方。現場の順番を戻す。
「現場保存を最優先。出入口の確認。外の足跡、タイヤ痕、全部押さえろ。誰も勝手に触るな」
声は低く、よく通った。
「鑑識呼べ。神明が入れるなら神明を回せ。監察医務院にも連絡だ。別の……」
そこで言葉が途切れた。監察医を呼ぶ現場で、死んでいるのがその監察医本人なのだ。現場の順番が壊れている。その壊れ方に、誰もまだ身体がついていっていなかった。
「……別の人間を寄越せ。副院長でも誰でもいい、すぐだ」
若い刑事が頷いたが、顔には一瞬迷いが浮いた。
「呼べ」
真壁は切るように言った。
二階堂が低く口を開いた。
「これ、外に出たら終わる」
真壁は二階堂を見た。終わる、の意味は一つではない。監察医が惨殺された。血文字を残した。報道は食いつく。九条は一瞬で“読まれる死体”になる。真壁も二階堂も、それを知りすぎていた。
「分かってる」
「分かってない顔してる」
「じゃあお前が分かれ」
二階堂は返事をしなかった。代わりに、壁へ手をついたまま一度深く息を吐き、それから倉庫の入り口を振り返った。まだ顔色は悪い。だがそのまま無理やり、広報の顔を作った。
「広報はまだ出さない。確認中で止める。名前も所属も出すな。写真も押さえろ。遊ばせるな」
最後の一言にだけ、嫌悪が出た。事件が消費されることへの嫌悪だ。
真壁は再び九条を見た。身体はひどい有様だった。だが、ただ壊された死体ではなかった。爪が割れている。指先にコンクリートの粉が詰まっている。右肩から壁へ向かう血の擦れがある。途中で何度も息を継いだのだろう、不規則な滴下の跡がある。守るように丸まった腕の形が、その場で最後まで抗ったことを示していた。
犯人は、何をした。
まだそれ以上は言葉にしない。ここで全部見えすぎると、現場が薄くなる。真壁はそういう種類の勘だけを胸の奥へ押し込めた。
「……残そうとしたのか」
口から出たのは、それだけだった。
鑑識が入った。先頭にいたのは神明だった。薄い色の上着。歩幅が一定で、足音が小さい。九条の遺体の前でも、その歩幅は崩れない。
「撮ります」
神明が言った。
ライトの角度だけが変わる。神明が遺体の喉元で一瞬だけ止まった。次に口元。最後に床の血文字へ視線が落ちる。順番が静かすぎて、真壁は逆にそこに意味を見る。
「損壊部からでいいか」
神明が若い鑑識に聞く。
「はい。前頸部、口元、上半身、先に押さえます」
神明は答えず、シャッターだけ切った。正面。側面。近接。さらに別角度。証拠の意味を決める前に、形だけを残す。
若い鑑識が喉の前でしゃがみ込み、小さく息を吐いた。
「圧迫痕、あります」
神明が短く返す。
「口腔周辺も」
「……吐かせようとしたんですかね」
「今は言うな。撮れ」
声は平らだった。だが否定はしない。
神明が血文字の近くで一瞬だけ止まった。
「……一文字に見えます」
若い鑑識が言った。
神明は答えず、別角度からもう一枚、さらに低い位置からもう一枚撮った。
真壁は血文字を見た。そんなはずがない。そう思ったのに、脳はその一文字を勝手に別の形へ変えようとした。
ま。
真壁。
待て。
任せた。
まだ定まっていないのに、名前だけが先に浮いた。
その横で写真を見ていた二階堂も、同じ形を読んだのだと分かった。二階堂の頬の筋肉が一度だけ固くなった。整いかけていた呼吸がまた少し乱れる。
「……そんなわけねえだろ」
吐くように言ったのが、誰だったのか一瞬分からなかった。真壁かもしれないし、二階堂かもしれなかった。
搬送の手順が始まった。九条の身体の周りにマーキングが増え、ストレッチャーが運び込まれる。所轄の若い刑事が遺体袋を持つ手を強張らせていた。普段なら死体を死体として扱える人間でも、知った名前がそこへ入ると急に順番が狂う。
二階堂が、ほんのわずかに目を伏せた。
「……最後まで」
言葉は続かなかった。
遺体袋が閉じられた。ファスナーの音が、倉庫の中で異様に大きく響いた。その音で、二階堂がまた一瞬ふらついた。真壁は反射で腕を掴んだ。掴んだ手首が冷たい。
「外出ろ。少し座れ」
「いや……大丈夫だ」
「大丈夫な顔してない」
「お前だって」
そう言われて、真壁は初めて自分の口の中が妙に乾いていることに気づいた。指示は出している。見ている。考えている。なのに頭のどこかが一向に追いついていない。
外へ出ると、海の光が強すぎた。そこで初めて、真壁は自分がさっき倉庫の中で息を止めていた時間の長さを知った。胸が遅れて痛んだ。
医務院の車が来た。副院長が降りてくる。いつも穏やかな男だが、今日は顔色が完全に抜けていた。倉庫の中へ入り、遺体袋の前で一瞬足が止まる。
「……雅紀」
小さかった。
だが副院長はすぐに仕事の顔へ戻った。真壁の前に立つ。
「警察として、正式な解剖依頼を」
声は落ち着いていた。だが、目は赤かった。
真壁は一瞬だけ言葉を探した。しかし、結局いつもの言い方になった。
「猟奇殺人事件の被害者として」
少しだけ間を置く。
「解剖をお願いします」
副院長は静かに頷いた。
「……引き受けます」
それが、その日の解剖依頼だった。
だが副院長の視線は一度だけ、遺体袋の腹のあたりで止まった。ほんの一拍だった。泣きそうだから目を伏せたとも取れる。解剖責任者として損傷部位を確認したとも取れる。どちらにも見える短さだった。真壁はその時、その視線の意味までは考えなかった。ただ、九条の腹ばかりを今日みんなが見ていることだけが妙に気にかかった。
遺体搬送車の扉が閉まる。金属の音が、重く響いた。
九条雅紀の死体が、医務院へ運ばれていく。
その車を見送りながら、真壁は思った。あいつは最後まで証拠を残した。ならば拾うのは、自分たちだ。
その時、鑑識の一人が声を上げた。
「真壁警部補!」
床の写真を確認していた神明が、画面を見せる。
「血痕の文字、角度を変えて拡大しました」
そこに写っていたのは、歪んだ線だった。崩れている。だが、ただの擦れではない。どう見ても、書こうとした形だった。
真壁と二階堂が同時に息を止める。
九条が死ぬ前に残した、最後の証拠。
その場の全員が理解した。これはもう、ただの惨殺事件ではない。
真壁は神明に聞いた。
「現場で見つかった物は」
「所持品は散ってる。空のファイル、財布、身分証、鍵束。携帯はまだ捜索中。遺留品として目立つものは現時点でなし」
「刃物は」
「倉庫の外です。搬入口の反対側、岸壁寄りの草むらに一本。血液付着あり。回収はまだ」
真壁は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
倉庫の外。刃物。死体の近くではない。外。
「……何だって?」
自分で言った声が少し遅れて聞こえた。
神明がすぐに言う。
「写真先行してます」
真壁は頷こうとして、うまく頷けなかった。
「おい、誰が見つけた」
「巡回の制服です」
「触ったのか」
「いえ、まだです」
「それを先に言え」
強く言ったつもりだったが、途中で声が妙に掠れた。
神明が真壁を見た。
「真壁さん?」
呼ばれて、真壁は一拍遅れた。
「あ……ああ。なんだっけ」
自分で口にして、ようやくそれが出てしまったことに気づいた。
神明は何も表情を変えずに言う。
「刃物の現場保全です」
「……そうだ。そっちを先に押さえろ。搬入口から岸壁側、動線全部見る。投げたなら軌道も残る」
言ってから、最後の一言だけが自分の中に引っ掛かった。
投げたなら。
なぜ投げる。
倉庫の中で刺し、外へ投げる理由がすぐには見えない。
二階堂も同じことを考えたらしかった。顔色の悪いまま、低く言う。
「犯人が捨てたにしては、雑すぎるな」
「……ああ」
「九条が掴んだのか」
「分からん」
分からない。だが、その分からなさだけが妙に鮮明だった。
遺体搬送車はもう見えなくなっていた。海風だけが倉庫の中へ細く入り、血の匂いを少しずつ薄めていく。薄まっても、消えない。九条がここで最後まで何かを守ったことも、残そうとしたことも、もう匂いのように空間へ染みていた。
真壁は短く頭を振る。守った。這った。書いた。刃物は外に出た。どれもまだ証明ではない。だが全部が九条雅紀という人間の癖に沿いすぎている。
二階堂が倉庫の出口で振り返った。
「真壁」
「何だ」
「お前、分かってると思うけど」
「ん」
「これ、あいつはただ殺されただけじゃない」
その言い方は、真壁の胸の内側にあった形のない感覚を、そのまま言葉にしていた。
「……ああ」
「何かを残す前提で死んでる」
真壁はすぐには答えなかった。答えれば、現場で見たもの全部に一本の線が通る。そうなるともう、九条の死は単なる被害ではなくなる。その重さを、今ここで受け取りたくなかった。
それでも、結局は短く言った。
「分かってる」
二階堂はそれ以上何も言わなかった。まだ少し青い顔のまま、口だけを閉じた。
朝の光だけが、倉庫の中で少しずつ位置を変えていく。
九条雅紀は死んでいた。
だが現場には、まだ九条の意志だけが残っていた。犯人が壊し切れなかったものが、血の筋と傷の集まり方と、守るように折れた腕の形と、外へ出た一本の刃物の不自然さの中に残っていた。殺された身体でありながら、同時に何かを隠し通した身体でもある。その異様さが、倉庫の空気を最後まで冷えたままにしていた。
そして真壁と二階堂は、その意志を拾う側に立たされた。
友人として。警察官として。もう元には戻れない者として。




