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食事の終わった後、逹彦は、放心したように、窓の外を眺めていた。
珍しいことだ、と奈緒美は思った。今日は、立て続けに母の知り合いに出会った。自分の知らない母を大勢の人が覚えている。祖父が、毎朝間違えるほど、それほど自分の外見は母に似ているのだろうか。
一つだけ、逹彦に聞いてみたいことがあった。
『逹彦は、母を知っているのだろうか』
しかし、それは、尋ねてはいけない質問のように、いつまでも奈緒美の胸にくすぶり続けていた。こうして向かい合ってみれば、自分は、逹彦のことを何一つ知らないことを思い知る。そして、逹彦は、奈緒美のことをどれだけ知っているのだろうか。
「送りましょうか」
夢から覚めたように、逹彦が言った。
「今日は、8時から、会議があるんです」
会議といえば、本多邸で開かれることになっている親族会議のことだ。
「じゃ、逹彦さんも出席なさるの?」
「ええ」
彼はどこから来たんだろう、と奈緒美は考えていた。
「長友逹彦君だ」と祖父は、奈緒美に紹介した。
「アメリカから帰ったばかりだ。どうだ。ハンサムじゃろう」
「はじめまして、本多奈緒美です」
一瞬、ハーフではないか、と疑った。アメリカの大地が育てたような肉体、立体的な骨格、長い脚。髪の毛も黒というよりは赤褐色に近い。
奈緒美はドギマギした。今まで、それほどハンサムな男性を見たことがなかったからだ。
「本当に、奈緒美さん?」と逹彦は言った。
奇妙な感覚だった。逹彦は、突然、奈緒美を両腕の中に抱え込んだ。物事に動じない祖父が狼狽の色を見せた。奈緒美は、逹彦の腕の中で、息がつまりもがいた。その瞬間『私は、この人を知っている』と奈緒美は感じた。なぜか懐かしかった。ずっと昔から知っている人のようだ。それは、なぜだったんだろうか。
そして、その一瞬のうちに、奈緒美は逹彦に恋をした。
『これは、私の男』
今までにボーイ・フレンド一人いなかった奈緒美が、その瞬間にそう思ったのだ。
それは、随分無謀な考えで、一人よがりであることは、誰よりも奈緒美自身が知っていた。
以来、奈緒美の希望通り、逹彦は、影のように奈緒美にピタリと寄り添っているように思えた。まるで、ずっと昔からの習慣であるかのように。奈緒美を守ることが、自分の使命であるかのように。
『彼は、母を知っているのだろうか』
いつか、きっと、尋ねてみなければならなかった。しかし、なぜだかわからないが、二人の間に母親の影が入り込むと、今の幸せが崩れてしまうように思えるのだ。それは、なぜなんだろうか。
私は彼を失いたくない、と奈緒美は思っていた。頭がおかしくなっているに違いなかった。会って、わずか一ヵ月たらず。それなのに、私は、彼の全てが知りたいと考えている。もっと近づきたい。彼に触れていたい。彼に抱擁され、彼の全てを受け入れてみたい。
なぜ、そんな風に思えるのだろうか。
しかし、実際の交際は、しごく健全なもので、食事とグッナイ・キス以上のことは、何もなかった。
奈緒美のファースト・キスは、おでこへのキスになってしまった。
『あれは、アメリカ流の挨拶だったのだ』と奈緒美は思う。
三度目のデートの後、車から降りた逹彦は、助手席のドアを開け、ごく自然に降りてくる奈緒美の肩を抱いた。
『彼は、私にキスするつもりだ』と思った瞬間、奈緒美の身体は震え始め、思わず逹彦の厚い胸に顔を埋めてしまった。
「おやすみ、ベイビー」
逹彦の大きな手が、奈緒美の頭を支え、奈緒美の額に柔らかくて暖かい唇が触れた。髪の毛の一本一本が、生き物のように逆立ち、頬から首に、肩から指先に、背中から足の先の先にまで、電気に痺れたような感覚が襲ってきた。それは、何度も行きつ戻りつする感覚だった。
「じゃ、また」と逹彦は言った。
「おじいさまには、会わないの?」
なぜ、そんなことを言ったのだろう。
逹彦は首を振り、車に乗り込んだ。彼は、祖父や春木さんとは違う、私にとっては異性なのだ、と気がついた。
彼は、私を『ベイビー』と呼んだ。『赤ちゃん』と言ったのだろうか。それとも、『愛しい人』と言ったのだろうか。
逹彦の車は、奈緒美の家に向かって走っていた。急いでいるようだ。昔から、会議といえば、会社でではなく本多邸で行われていた。役員のほとんどが、祖父の子供達、奈緒美のおじ達だったので、当然といえば当然かもしれなかった。
逹彦は、会社にとってどういう人間なのだろうか。
身内ばかりで固めている同族会社だった。母の義理の兄弟達が各部門のトップを独占している。そんな身内ばかりの集まりに逹彦が出席するのは、場違いではないのだろうか。
しかし、奈緒美には、会社のことはわからない。仕事のことは、祖父も逹彦も、奈緒美には話してくれなかった。
『もし、私が母だったら、私もその会議に出席していたのではないだろうか』
そうだろう。多分そうに違いなかった。
「私って、そんなに母に似ているのかしら?」
奈緒美は、すがるような気持ちで、運転席の逹彦にそう言ってみた。
「どうして、そんなことを聞くの?」
逹彦の横顔は、返事を拒否しているかのように、冷たく無表情だった。
「わ、私は、母のことを何も知らないから」
「知りたいの?」と逹彦が尋ねた。
『知りたくない』と本能的に思った。
「いいえ、知りたくないわ」
「そう」
再び、逹彦は黙った。沈黙が二人の間を隔て、急に逹彦が遠いところに行ってしまったように感じた。奈緒美の心は焦り、やみくもにしゃべり始めた。
「家には母の写真もないの。私が三才の時に亡くなったのよ。私は、父のことも、母のことも、何にも知らないの」
車が、止まった。
「ベイビー」と逹彦が、言った。
「ここに、おいで」
まるで赤ん坊をあやすように、逹彦は、奈緒美を抱き締め、優しく背中をたたいた。
「怖いことなんか何もない。安心しておいで。どんなことがあっても、僕がついているから」
「本当に?」
奈緒美は、自分が赤ん坊になったように感じていた。
「本当に?」
「お母さんのことなんか忘れてしまったほうがいい。君には、僕がついているんだから」
彼は、私にキスするつもりだろうか、と奈緒美は思った。口臭がしなければいいけど。しかし、逹彦は、奈緒美を元の場所に座らせると、車を発進させた。奈緒美の心には、軽い失望の念がわいた。
『私はベイビーなんだ。彼にとっては一人前の女ではなく、ただの赤ちゃんなのだ』
奈緒美の心を見透かしたように、逹彦は、黙って奈緒美の肩を抱いた。彼は、左手だけで危なげのない運転をしている。車と彼は一体になっているみたいだ。彼は、車に慣れきっていた。奈緒美は、自分も車の一部に、逹彦の一部になっているように感じていた。このまま、時が止まってしまえばいいのに。車の振動と、逹彦の腕の暖かさが心地好かった。自分が逹彦の身体に溶け込んでいくようだ……
逹彦が奈緒美のほうを見る。奈緒美は、金縛りにあったように身動きできない。逹彦が奈緒美の唇にキスをしようとする。今日の奈緒美は、ニッコリ微笑んで、キスを受けている。その上、自分が着ているピンクのドレスを脱ごうとしている。逹彦は、奈緒美を止めているみたいだ。しかし、ピンクのドレスの下には、もう一枚のピンクのドレスが現れる。ピンクのスカートの下にも、思った通りもう一枚のスカートが……
「着きましたよ、奈緒美さん」
夢でよかった、と奈緒美は思った。でも、奈緒美は眠っていたわけではない。車の窓からの景色は、ちゃんと覚えている。まるで、自分の中からもう一人の自分が現れようとしていたみたいだった。
夢の中のキス・シーンが頭の中に蘇ってきた。
『家に入る前に、彼は、私にキスするだろうか』
ひどく悲しい気持ちだった。そんなことしか考えていない自分に対して。
逹彦が時計を見るのがわかった。7時45分。優等生の時間だ。ジャスト8時には、祖父の部屋に入っているだろう。
逹彦は、奈緒美の部屋の前まで彼女をエスコートし、軽く奈緒美の頬に手を触れると、祖父の部屋のほうに進んでいた。
奈緒美は、ドアを後ろ手に閉めた。同じ家の中に逹彦がいる。それなのに、会うこともできない。彼は、何時に帰るのだろうか。ドレスが皺になるのもかまわず、奈緒美はベッドに身を投げた。自分を持て余す。どうしていいのか、わからない。
ノックの音がした。
奈緒美は起き上がり、期待に胸を踊らせた。
「どうぞ」
ドアが開き、奈緒美の顔を見た春木さんが言った。
「あらまあ、どうなさったんですか。軽く、何かお飲みになるかと思って」
「何も、いらないわ」
「逹彦さまと喧嘩でもなさったんですか」
「いいえ」
なぜか、涙が流れてきた。泣く理由なんて何もなかったのに。
「暖かいお茶をお飲みなさい。きっとお疲れになったんですよ」
紅茶の熱と春木さんの優しい表情が、心を温める。
「ありがとう、春木さん」
「お嬢さまは、逹彦さまが本当にお好きなんですね」
奈緒美と春木さんは、しばらくの間、お互いを見つめ合った。
母が生きていれば、こういう感じなのだろうか。
「春木さん、逹彦さんは、母を知っていたの?」
春木さんが返事をするまでに、一瞬の沈黙があった。
「さあ、どうでしょう。私は、奥様が亡くなられてから、このお屋敷に来たものですから」
「母は、何で亡くなったの?」
「……多分、ご病気か何かで……私も、よくは知らないんです。それより、今日はいかがでした? 阿部加奈子さんて言えば、よくテレビにも出てらっしゃいますね」
「そう?」
奈緒美の知らないことが多すぎる。今までは、それでよかった。何も考えることはなかった。物心ついた頃からいなかった両親についても、不思議だとも淋しいとも感じなかった。祖父がいたし、春木さんがいた。何もかもが、奈緒美にとっては当然のことばかりだった。
しかし、逹彦が現れて以来、見知らぬ存在であった母が、そして、父が、無闇に気になるようになった。なぜ、家には、父の写真も母の写真もないのか。なぜ、誰も、奈緒美に両親の話をしないのか。
「……逹彦さんは、本当に、ハンサムになられましたね」
奈緒美の視線に、話し続けていた春木さんは、一瞬、口を閉ざした。
「……でも、さすが、アメリカ仕込みは違いますわ。きっと、旦那さまは、お嬢さまのお婿さんになさるつもりで、アメリカから呼び寄せられたに違いありませんわ」
「そうかしら? そう思う?」
まんまと、春木さんに乗せられていた。それは、奈緒美自身、心密かに考えていたことでもあった。
だから、逹彦は『どんなことがあっても、僕が守ってあげる』と言ったのではないだろうか。
「そうですとも。そうでなければ、ご親族ばかりの会議に、出席なさるはずがありませんもの」
そうなら、どれほど嬉しいことだろうか。いつも、いつも、逹彦と一緒にいられる。
「結婚式は、きっと、盛大でございましょうね。まるで、幸枝さまの時みたいに……」
お母さまの時と同じように?
春木さんも、私の知らないことを知っている、と奈緒美は考えていた。




