第2話:捕食者
地割れを覗き込む兵士たちに続き、アルファもその深淵を凝視する。
底の見えない闇。触れてはいけないと、魂が警鐘を鳴らしていた。
「おい……あれを見ろ!」
一人の兵士が震える指で空を指した。
レイドが終わり、雲一つなく晴れ渡っていたはずの青空に、亀裂が走っている。
それはまるで、凍った湖の氷が砕けるように、無機質な音を立てて広がっていく。
パキィィィィィィン!!
結界魔法が砕け散るような、硬質な音が大気を震わせた。
直後、空から透明な破片が猛烈な勢いで降り注ぐ。
「い、痛ぇっ! 刺さった!」
「なんだこれ、ガラスか!? 空からガラスが降ってきてるぞ!」
鋭利な空の欠片が、兵士たちの皮膚を無慈悲に切り裂く。
遠くでは、隣国の王子が王女と国王を庇いながら、
鮮やかな剣捌きでガラス片を弾き飛ばしていた。
その超人的な動きに、誰もが目を奪われる。
「アルファ! ぼさっとするな、中に入れ!」
背後から太い腕に引かれ、アルファはテントの中へ押し戻された。
そこにいたのは、筋骨隆々の先輩鍛冶師たちだ。
彼らは険しい表情で、割れたままの空を見上げていた。
しばらくしてガラスの雨はやんだが、空の亀裂は塞がらない。
それどころか、その隙間からドロリとした黒い靄が溢れ出してきた。
「山火事か……?」
黒い靄は急速に膨張し、先ほど討伐したばかりの、
山ほどもあるドラゴンの巨躯さえも飲み込むほどに巨大化していく。
煙の塊は、まるで明確な意思を持っているかのように、ゆっくりと、
だが確実に地上を目指して侵食を始めた。
「いや、違う。こっちに来るぞ!」
兵士たちは満身創痍だ。それでも、震える手で武器を構える。
兵士の前にざっと足を踏み出し剣を構える姿がある。
「ハッ、新しいボスのお出ましというわだね!」
勇者だ。
賢者、聖女、女魔導士、女騎士を引き連れ、彼は自信満々に前に出た。
わざわざ王女たちの近くに陣取っているのは、
手柄をアピールするつもりなのだろう。
「僕の聖剣の錆にしてくれる!」
勇者が黒い靄に向かって駆けだす。
その巨大な黒い靄に渾身の一撃を叩き込んだ。
だが、勇者が振り下ろした聖剣は、
靄に触れた瞬間に文字通り霧のように掻き消えた。
「……え? 僕の、僕の剣が……消えた……!?」
手元に残ったのは、虚しく空を切る拳だけ。
勇者は真っ青になり、アルファを振り返って怒鳴り散らした。
「おいアルファ! お前、ちゃんとメンテナンスしてないだろ! 耐久値をごまかしたな!?」
「そんなわけない! いつも以上に最高の修理をしたはずだ!」
「嘘だあああ! これだから職人ってやつは信用できないんだ。どうしてくれるんだよ!」
言い争う二人を突き退け、勇者パーティーの女性陣が動いた。
「勇者、どきなさい! 私が焼き払ってあげるわ!」
よろよろと倒れる勇者を尻目に、女魔導士が、詠唱を完了させる。
放たれたのは、一撃で城壁を穿つ巨大な火球――レイド戦で数多の窮地を救い、喝采を浴びた最大級の攻撃魔術だ。
だが、その劫火は黒い靄に触れる直前、まるで最初から存在しなかったかのように虚空へと消えた。
「はぁ!? 私の魔法が……かき消されるですって!?」
驚愕に目を見開く彼女の後ろで、聖女が杖を掲げる。
「一度、皆、下がってください! 私が癒やします!」
足元に巨大な魔法陣が展開され、まばゆい光の粒子が負傷兵たちを包み込もうとした。
「大聖癒術!」
空中に現れる、黄金の聖杯。兵士たちが安堵の息を漏らした、その瞬間だった。
黒い靄がぶるぶると震える。すると、靄から伸びた触手が、聖杯に触れる。
「え……?」
かき消える光。霧散する魔法陣。
傷を癒やすはずの奇跡そのものが、存在ごと削除されたようだ。
「神の奇跡が……消えた……? そんなこと、あり得ません……!」
動揺する聖女を制し、背後から蹄の音が響く。
「霧ごとき、我が愛馬で踏みつぶしてくれる!」
ユニコーンの愛馬に跨った、全身を鎧で固めた女騎士だ。
音を置き去りにするほどの凄まじい速度。目にも留まらぬ突進と槍の迅雷。
相手に音が届く頃には命を刈り取っているはずの必殺の型。
だが、迎撃に出た黒い靄の触手が、馬の脚にわずかに触れた。
――ヒヒィン!
いななきを上げる間もなかった。
愛馬の巨体が、頭から尻尾まで一瞬で「消滅」した。
「なっ……!?」
支えを失い、地面に叩きつけられる女騎士。
だが転んだ表紙に、フルフェイスが外れ中から金髪のエルフの少女の顔が露になる。
彼女が起き上がろうとした瞬間、今度は黒い触手が彼女自身の胴体を捉えた。
抵抗する術もなく、彼女もまたノイズと共に消滅していく。
「魔法も、物理も、生命も……。触れた端から『消されて』いくのか……」
アルファはその光景に戦慄した。
勇者パーティーの最大級の攻防。
かつて仲間にいたからこそ分かる、その圧倒的な威力が、
指先一つ触れるように無へと還される。
(……こんなの、戦いじゃない。これは、魔王とか以上の『何か』だ)
黒い靄から、無数の触手が意志を持つ蛇のように伸びる。
迎撃をせんと地上で立ち向かう兵士たちを次々と掴んでは消滅させていく。
つい先ほどまで歓喜に沸いた戦場は、一変して阿鼻叫喚の地獄へと変わっていた。
絡めとられた犠牲者たちは、抗う間もなく黒い靄の中へと引きずり込まれる。
それはまるで、巨大な怪物の口に放り込まれる踊り食いのようであった。
「逃げろ! 逃げろぉぉ!!」
絶望の叫びが、崩壊する世界に響き渡った。
~第2話・終~




