閾値
1
八九一。
梶原遥がその数字を初めて意識したのは、二〇三八年の冬だった。
つくば市の量子科学技術研究機構——通称QIST——の地下二階、実験棟B。摂氏マイナス二七三・一四度に冷却された希釈冷凍機の中で、超伝導量子ビットの配列が静かに動作している。一〇二四ビットの同時エンタングルメント生成。成功すれば世界初の記録になるはずだった。
「また落ちた」
モニタの前で、ポスドクの志村が声を上げた。梶原はコーヒーを置き、データを覗き込む。ベル状態の忠実度を示すグラフが、八九一ビットを境に崖のように崩落している。八九〇ビットまでは理論値との一致度九九・九七パーセント。八九一ビットに到達した瞬間、相関が消失する。まるでスイッチを切ったように。
「デコヒーレンス時間は?」
「十分に長いです。T2が四・二ミリ秒、余裕を持っても八九一ビットのゲート操作は間に合う計算です」
梶原は腕を組んだ。デコヒーレンス——量子状態が環境との相互作用で壊れる現象——は、量子コンピュータ開発における最大の敵だ。だが今回の崩壊パターンは、デコヒーレンスの特徴であるなだらかな減衰とはまるで違う。閾値を超えた瞬間に、すべてが一斉に消える。
「クロストークの可能性は」
「配線の再設計を三回やりました。最後のバージョンでは隣接ビット間のZZ結合を〇・一キロヘルツ以下に抑えてます」
梶原は黙ってグラフを見つめた。ノイズ源はすべて潰した。宇宙線の影響を排除するために地下に実験室を移し、振動減衰台の上に装置を置き、電磁シールドを三重にした。それでも八九一の壁は動かない。
翌週、梶原はプレプリントサーバで一本の論文を見つけた。MITのチェン・ウェイリンのグループ。トラップイオン方式という、QISTとはまったく異なるアーキテクチャで量子もつれの大規模生成に取り組んでいた。彼らの報告する最大同時エンタングルメント数は、八九一。
偶然ではないかもしれない。梶原はメールを書いた。
三日後、チェンからの返信には、清華大学のリー・シャオミンのグループも同じ壁に当たっているとあった。さらに二週間のうちに、CERNの超伝導回路チーム、シドニー大学の光量子チーム、すべてが同じ数字を報告した。超伝導、イオントラップ、光子、トポロジカル——物理的実装がまったく異なるにもかかわらず、同じ閾値。
八九一は装置の限界ではなかった。宇宙の限界だった。
2
二〇三九年春。梶原は京都大学基礎物理学研究所の理論物理学者、戸田誠一郎をQISTに招いた。
戸田は実験データを三日かけて精査した後、梶原の研究室で紅茶を飲みながら、静かに言った。
「プランク定数の値を覚えていますか」
「六・六二六〇七〇……掛ける一〇のマイナス三四乗。ジュール秒」
「なぜその値なのか、誰も説明できない。光速が秒速二九九・七九二・四五八メートルであることも、微細構造定数が約一三七分の一であることも。物理学はこれらを測定し、理論に代入するが、その値が『なぜ』その値であるかは問わない」
梶原は紅茶のカップを回した。「設計パラメータだと言いたいんですか」
戸田は眼鏡を外し、レンズを拭いた。「私が言いたいのは、八九一という数に物理学的な必然性がないということです。素数でもない。既知の定数の組み合わせからも導出できない。しかし宇宙のどこでも、どんな物理系でも同じ値が出る。これは自然法則の帰結ではなく、制約条件です」
「計算資源の上限」
「ええ。もしこの宇宙が何らかの計算系の上で走っているなら、同時に追跡できるエンタングルメントの数にハードウェア的な上限があっても不思議ではない。我々が見ているのは、いわばメモリの天井です」
沈黙が落ちた。地下の空調のかすかな唸りだけが聞こえる。
「証明する方法は」と梶原は訊いた。
「閾値を叩き続けることです。もしこれが自然法則なら、何も起こらない。しかし計算資源の上限であるなら、繰り返し負荷をかければ——」
「バッファが溢れる」
戸田は頷いた。「何かが起きるはずです。何が起きるかは予測できませんが」
梶原は三週間かけて実験プロトコルを設計した。八九一ビットの閾値をパルス的に叩く。一秒間に一〇〇〇回、エンタングルメント生成を試行しては解放する。量子系を閾値にぶつけ続ける負荷テスト。普通の物理実験ではありえないアプローチだったが、もはや普通の物理をやっているつもりはなかった。
3
実験を始めて四日目の深夜、最初の異常が起きた。
実験室のレーザー干渉計——本来は振動監視用——が、重力加速度のゆらぎを検出した。値にして一〇のマイナス一一乗の変動。地球の潮汐力では説明できない周波数パターン。
梶原はデータを見て手が震えた。しかし冷静さを保ち、記録を続けた。
六日目。光速度測定用のファブリ・ペロー共振器が、わずかな共鳴周波数のシフトを記録した。計算すると、光速の小数点以下第十二位が揺れている。一兆分の一の変動。通常の物理学では不変であるはずの定数が、息をしていた。
梶原は夜中に戸田へ暗号化されたメールを送った。戸田の返信は短かった。「続けてください」。
八日目の午前三時十七分。梶原はモニタを見ていた。タイムスタンプが、〇三:一七:四四から〇三:一七:四四に遷移した。同じ秒が二度記録されていた。原子時計のエラーかと思い、独立した三台のセシウム時計のログを確認した。三台すべてが同じ重複を示していた。
一秒が、二度来た。
梶原は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。天井の蛍光灯が、ごく微かにちらついた。気のせいかもしれない。もう二十時間以上起きている。
翌朝、梶原はすべての異常データを時系列で並べた。重力のゆらぎ、光速の変動、時刻の重複。それぞれの異常が発生してから、約四〇ミリ秒後に値が正常に戻っている。四〇ミリ秒。人間の知覚の閾値にほぼ等しい。
そして梶原は気づいた。異常は消えているのではない。修復されている。
重力定数の値は、ゆらぎの前と後で完全に一致している。小数点以下何桁を見ても同じ。自然な物理過程であれば、揺れ戻りには必ず残響がある。ところがこのデータには残響がない。値が完全に初期状態に巻き戻されている。まるで——
梶原はその比喩を頭の中で完成させることを拒んだ。だが、拒んでも事実は変わらない。
誰かがパッチを当てている。
リアルタイムで、この世界のバグを修正している何かが存在する。そしてその修正は、四〇ミリ秒という驚くべき速度で行われている。梶原たちの実験が世界の整合性を乱すたびに、何者かがそれを元に戻す。まるでゲームの不正検知システムのように。
4
九日目の朝、梶原はいつも通り実験室に入った。
装置は正常に動作していた。冷凍機の温度は安定し、量子ビットのコヒーレンス時間も仕様通り。梶原は習慣的にキャリブレーションを走らせた。
一〇二四ビットの同時エンタングルメント生成テスト。忠実度のグラフがリアルタイムで描かれていく。八八〇、八九〇、八九一——梶原は息を止めた——八九二。相関が維持されている。
閾値が上がっていた。
梶原はテストを三度繰り返した。三度とも、八九二ビットまで相関が保たれた。八九三で崩壊する。新しい天井。まるで、サーバの管理者がメモリを増設したかのように。
梶原はデータベースにアクセスし、過去八日間の異常データを呼び出そうとした。検索結果はゼロ件。重力のゆらぎも、光速の変動も、時刻の重複も、すべて記録から消えていた。ログのタイムスタンプは連続しており、削除の痕跡はない。最初からなかったことになっている。
梶原は志村を呼んだ。
「先週の深夜実験のデータ、どうなった」
志村は怪訝そうな顔をした。「深夜実験? 先週は通常のキャリブレーションしかしてませんけど」
「負荷テストだよ。閾値を繰り返し叩く実験。戸田先生と——」
「戸田先生がいらっしゃったのは三月ですよね。あのときは理論的な議論だけで、追加実験はしないことになったと——」
梶原は志村の顔を見た。嘘をついている目ではなかった。志村は本当にそう記憶している。
梶原は自分のデスクに戻り、メールの送信履歴を開いた。戸田への暗号化メールは存在しなかった。戸田からの返信も。ブラウザの履歴にも、論文管理ソフトの検索ログにも、実験を示すものは何一つ残っていなかった。
世界は修復されていた。完全に。
ただ一つ——梶原は実験用ノートを開いた。手書きのノート。紙とペン。デジタル化されていない、ネットワークに接続されていない物理的な記録媒体。
三月十五日のページに、梶原自身の筆跡でこう書かれていた。
「891」
その下に、同じ筆跡で。
「ここが境界」
梶原はそのページを指でなぞった。自分の字だ。間違いない。だが、それを書いた記憶がなかった。
いや——正確に言えば、記憶はある。実験をした記憶、異常を観測した記憶、恐怖と興奮の入り混じった九日間の記憶。それは確かにある。だがその記憶が本物であるという保証は、どこにもない。記憶もまた、修正可能なデータに過ぎないのだとしたら。
梶原はノートを閉じ、窓のない地下室で天井を見上げた。蛍光灯は安定した光を放っていた。
閾値は今日から八九二になった。世界は何事もなかったかのように回り続ける。同僚たちは新しい閾値をデコヒーレンスの壁だと信じ、その突破を目指して研究を続けるだろう。そしていつか八九二に到達したとき、壁は八九三に上がる。
梶原は考えた。自分がこのことを覚えているのは、なぜだろうか。バグだろうか。あるいは——覚えていると思い込まされているのだろうか。この疑念そのものが、修復の一部なのだとしたら。
結局のところ、梶原にはわからなかった。わかっているのは一つだけだ。
八九一と手書きされたノートが、目の前にある。それだけが、デジタルでもアナログでもない、梶原と世界の境界線上にある唯一の物体として。
梶原はペンを取った。八九一の隣に、八九二と書き足した。
明日もし自分がこの数字を見て首を傾げたなら。もし同僚に「これ何だっけ」と訊いたなら。そのときこそ——
梶原はペンを置いた。それ以上は考えないことにした。
地下の実験室を出て、エレベータに乗り、地上に出た。三月のつくばは寒かった。空は曇り、駐車場のアスファルトは湿っている。すべてが、昨日と同じ風景だった。
完璧に、同じだった。




