第88話『基準の影──見えなかった余白』
基準を改定した翌日、
表向きには、何も変わらなかった。
手続きは滞りなく進み、
現場の動きも滑らかだ。
「落ち着いていますね」
ミレーヌが言う。
「ええ」
私は頷く。
「“見える部分”は、ね」
問題は、
見えないところに残る。
午後、倉庫区画の巡回中、
一人の年配の管理者が声をかけてきた。
「少し、お時間を」
その声は低く、
だが躊躇いがあった。
「どうしました?」
「基準改定の件です」
彼は、周囲を気にするように視線を走らせた。
「現場では……
判断が慎重になりすぎている」
私は、足を止める。
「慎重すぎる?」
「ええ。
基準に触れないよう、
誰もが“余白”を避けています」
余白。
その言葉が、胸に引っかかった。
「例外を恐れている?」
「恐れているというより……
責任を、思い出してしまった」
なるほど、と思う。
判断を分けた。
責任を共有した。
だが、それは同時に、
“自分も背負っている”という意識を強めた。
「動きが、少し鈍い」
彼は、そう締めくくった。
執務室に戻り、
私は一人で考える。
基準は、守るためのもの。
だが、守らせすぎると、
人は縮こまる。
夕方、リュシアンを呼ぶ。
「現場で、
判断が止まっていないか、
確認して」
「止まってはいませんが……
慎重ではあります」
「“安全側”に寄りすぎている?」
彼は、少し考えてから頷いた。
夜、灯りを落とした室内で、
私は基準書を開く。
書かれているのは、
条件と手順。
だが、書かれていないのは、
“どこまで考えていいか”だ。
基準は、影を落とす。
その影が濃すぎると、
人は動けなくなる。
「……余白を、示す必要がある」
独り言が、静かに響いた。
委ねるだけでは足りない。
任せる範囲を、
言葉にしなければならない。
中心の仕事は、
線を引くことじゃない。
線の内側で、
どう動いていいかを、
示すことだ。
私は、ペンを取る。
次は、
“余白”を書く番だ。




