第86話『沈黙の時間──判断が熟すまで』
異議が戻ってきた翌日、
私は意図的に、判断を急がなかった。
「……今日は、静かですね」
ミレーヌが、昼前の執務室でそう言った。
「ええ」
私は書類から目を離さずに答える。
「今は、
音を出す時じゃない」
中心に立つ者が沈黙すると、
周囲は不安になる。
だが同時に、考え始める。
午後、例外判定の協議体から、
追加の意見が届いた。
「条件が変わる可能性について、
整理しました」
そこには、新しい数字も、
仮定もあった。
「……動いてる」
リュシアンが、小さく言う。
「ええ」
私は、頷いた。
「“答え”を待つだけじゃなくなった」
誰かが決めるのを待つ時間。
それは、楽だ。
だが、沈黙が続くと、
人は自分で埋め始める。
夕方、港を歩く。
現場は、変わらず動いている。
「止まってませんね」
ガイルが言う。
「止めてないもの」
私は答える。
「判断を、
保留しただけ」
夜、シグルが報告に来る。
「外からの動き、
様子見に入った」
「焦れない?」
「……焦れてる」
彼は、口の端を上げた。
「だが、
踏み込めない」
私は、窓の外を見る。
沈黙は、
何もしないことじゃない。
時間を、熟させることだ。
机に戻り、
意見書を重ねる。
増えた情報。
変わらない前提。
揃わない条件。
そして、
揃いつつある理解。
「……そろそろ、だな」
独り言が、静かに落ちた。
中心は、
常に答えを出す場所じゃない。
答えが“出る形”を、
待つ場所でもある。
今日の沈黙は、
逃げではない。
次の判断が、
より強く立つための、
必要な間だ。
私は、灯りを落とし、
その時を待つのだった。




