第80話『名の重さ──呼ばれ方が変わる時』
変化は、評価としてではなく、呼び方として現れた。
「……レティシア様、でよろしいでしょうか」
その一言は、港の会合の席で、不意に投げられた。
発言したのは、隣領の古参商人だった。
これまで彼は、曖昧に「領主殿」あるいは「こちらの方」と呼んでいた。
私は一瞬だけ瞬きをし、頷いた。
「構いません」
それだけで、場の空気がわずかに変わる。
名を呼ぶ、というのは、位置を定めることだ。
上下でも、親疎でもない。
責任の所在を、認めるという意味で。
会合は淡々と進んだ。
新規路線の確認。
通行料の再設定。
季節前の倉庫利用枠。
条件は厳しめだが、明確。
誰かに有利でも、不利でもない。
「……相変わらず、融通は利かない」
商人の一人が、半ば冗談めかして言った。
「ええ」
私は、微笑みもしない。
「利かせていませんから」
一瞬の沈黙。
だが、その後、誰も反論しなかった。
夕刻、会合後の報告をまとめていると、リュシアンが言った。
「呼び方が、揃い始めています」
「そう」
私は、ペンを止めない。
「肩書きが、
定着してきた」
「好意的、でしょうか」
「評価ではないわ」
私は首を振る。
「“扱い方”よ」
扱い方が決まると、余計な試しが減る。
無理な要求も、感情的な駆け引きも、通じなくなる。
それは、楽ではない。
だが、安定する。
夜、港を巡回する。
「……声、掛けられました」
ガイルが、低く言う。
「何て?」
「“あの人が決めたなら”って」
私は、足を止めた。
それは、信頼の言葉ではない。
依存でもない。
「決定権が、
一箇所にあると理解された」
ただ、それだけ。
執務室に戻ると、シグルが待っていた。
「外からの探り、減った」
「代わりに?」
「直接の問い合わせが増えた」
私は、小さく息を吐く。
「回り道をしなくなったのね」
それは、名が通った証拠だ。
噂ではなく、実務として。
机の上の書類を一つ、閉じる。
名を守るというのは、
大きく見せることじゃない。
使わせないことでもない。
呼ばれた時に、
その名に耐える判断をすること。
今日、私は呼ばれた。
だから、応えた。
それだけだ。
港の灯りが、変わらず揺れている。
だが、その揺れは、
以前よりも、一定だった。




