第79話『見えない線──守る者と試す者』
揺り戻しの兆しが落ち着いたと思われた矢先、
それは、表に出ない形で現れた。
「……気配が、違います」
シグルの報告は、曖昧で、だからこそ重かった。
「場所は?」
「特定できない。
だが、港でも市場でもない。
“人の間”だ」
私は、静かに息を吸った。
「試しているのね」
ガイルが眉を寄せる。
「何を?」
「線よ」
私は答える。
「どこまでなら、
見逃されるかを」
その日の午後、私はあえて指示を減らした。
細かな判断を、現場に委ねる。
結果は、すぐに出た。
小さな報告の遅れ。
伝達の省略。
書類の簡略化。
どれも、致命的ではない。
だが、積み重なれば、形になる。
「……出ましたね」
リュシアンが、控えめに言う。
「ええ」
私は頷いた。
「守る側が、
“慣れ”始めた」
それは怠慢ではない。
人が集団で動く以上、避けられない現象だ。
問題は、その先。
夕刻、私は一つだけ、指示を出した。
「今日の記録、
全て再確認して」
「全て、ですか?」
「ええ。
理由は言わない」
理由を与えない判断は、
時に、空気を正す。
夜、修正報告が上がってきた。
「……ありました」
ミレーヌの声が、少し硬い。
「三件。
意図的ではありませんが、
“省いていい”と判断した箇所です」
「本人は?」
「“大丈夫だと思った”と」
私は、目を閉じる。
「呼んで」
当事者は、若いが真面目な顔つきだった。
「悪気はありませんでした」
「知ってる」
私は、遮るように言う。
「だから、今言う」
机に手を置き、はっきり告げる。
「ここでは、
“大丈夫だと思った”は、
理由にならない」
彼は、唇を噛んだ。
「でも……
皆、忙しくて」
「忙しいからこそ、守る」
声を荒げない。
「忙しさは、
線を消す理由にならない」
処分は、軽い。
だが、明確だった。
全体への共有。
判断基準の再提示。
そして、再確認の徹底。
夜更け、港の灯りを見下ろす。
「……締めすぎてませんか?」
ミレーヌが、心配そうに言う。
「いいえ」
私は首を振る。
「見えない線は、
見えないうちに引き直す」
シグルが、低く言った。
「試す者は、
引き際も見る」
「ええ」
私は答える。
「越えなかった、
という事実を」
今日、誰も大きく叱られていない。
だが、皆、線を思い出した。
それでいい。
守るとは、
疑うことじゃない。
忘れさせないことだ。
私は、また一つ、
見えない線を引いた。
静かに。
そして、確実に。




