第76話『静かな信用──積み重なる重み』
境界の件が“何事もなく”終わってから、三日。
その三日が、意外なほど大きかった。
噂は広がる。
だが今回は、誇張でも恐怖でもない。
「動かなかったらしい」
「名前を使わせなかったって」
「線を越えなかったそうだ」
派手さのない話ほど、尾ひれがつかない。
そのまま、静かに伝わっていく。
「……効いてますね」
リュシアンが、報告書を閉じながら言った。
「ええ」
私は頷く。
「“使えない名”だって、
ちゃんと伝わった」
ガイルが鼻で笑う。
「普通は逆なんだけどな。
使えるから、価値があるって思う」
「短期的には、そう」
私は答える。
「でも、長く残るのは、
勝手に使えない名よ」
その日の午前、港で小さな出来事があった。
隣領の商人が、契約内容を一つ一つ確認している。
「……ずいぶん細かいな」
彼は、半ば呆れたように言った。
「ええ」
管理役が答える。
「でも、後で揉めません」
商人は、しばらく考え込んでから、頷いた。
「確かに。
信用ってのは、
楽をすることじゃないな」
それを聞き、私は少しだけ微笑んだ。
昼過ぎ、別の報告が入る。
「離れていた小規模商人が、
戻り始めています」
ミレーヌの声は、穏やかだ。
「理由は?」
「“安心できる”と」
私は、椅子の背にもたれた。
安心。
それは、最初から与えられるものじゃない。
約束を守り、
越えない線を守り、
それを何度も繰り返した先に、
ようやく生まれる。
夕方、シグルが戻る。
「影の動きは?」
「薄い」
彼は短く答えた。
「入り込む理由が、見つからない」
「それでいい」
私は言う。
「理由を与えないのが、
一番の対策だから」
夜、執務室で一人、帳簿を整理する。
数字は、派手に伸びてはいない。
だが、下がってもいない。
「……重いな」
思わず、そう呟く。
数字が重い。
人の動きが重い。
決断が重い。
それは、停滞じゃない。
密度だ。
窓の外、港の灯りが、いつも通り揺れている。
だが、その揺れに、以前より安心感がある。
名を掲げ、
線を引き、
越えないと決めた。
その積み重ねが、
今、静かな信用になっている。
信用は、叫ばない。
主張もしない。
ただ、残る。
私は、その重みを感じながら、
今日も机に向かう。
派手な勝利はない。
だが、崩れない足場がある。
それで、十分だ。




