第75話『線を越えない力──境界の内と外』
均衡を揺らした翌日、領地は少しだけ息をしやすくなっていた。
昨日まで張りつめていた肩が、ほんのわずかに下がる。
それは油断ではない。
呼吸だ。
朝の報告を聞き終えたところで、リュシアンが一通の書簡を差し出した。
「境界監視からです。
……正式なものではありませんが」
封は軽い。
だが、文面は重い。
「“境界の外”で、小競り合い。
当領の名を出した者がいる、ですか」
「ええ」
ガイルが眉をひそめる。
「勝手に看板を使われたな」
私は頷いた。
「名が広がると、
“使った気になる者”も出る」
その日の昼、私は境界に近い監視所へ向かった。
護衛は最小限。
威圧しに行くわけじゃない。
監視所は静かだった。
兵の動きは整っているが、緊張は過剰ではない。
「状況を」
責任者が、簡潔に報告する。
「隣接地での小規模な衝突です。
当領の関与はありません」
「名を出したのは?」
「第三者です。
“レティシアの後ろ盾がある”と」
私は短く息を吐いた。
「訂正は?」
「即座に。
事実無根だと」
「よくやった」
私は、外の境界線を見る。
地図上の線。
だが、現実では曖昧だ。
「越えていい線と、
越えてはいけない線がある」
責任者は、真剣に頷いた。
「こちらから、動きますか?」
「いいえ」
私は首を振る。
「越えてないなら、越えない」
強さは、踏み込むことだけじゃない。
踏み込まない判断も、同じくらい力が要る。
夕刻、屋敷に戻ると、シグルが待っていた。
「影の反応は?」
「鈍い」
彼は答える。
「“使えない名”だと、
理解し始めている」
「それでいい」
私は椅子に腰を下ろす。
「貸さない。
振り回させない」
名は、剣じゃない。
盾でもない。
まして、免罪符じゃない。
夜、港を歩く。
灯りは変わらず、揺れている。
若い管理役が、遠慮がちに声をかけてきた。
「……今日の判断、
何もしないって、怖くなかったですか?」
「怖かったわ」
私は正直に答える。
「でも、怖さで動くと、
線を越える」
彼は、ゆっくりと頷いた。
「線を守るって、
難しいですね」
「ええ」
私は微笑む。
「だから、価値がある」
境界の内と外。
踏み込まない選択。
名を使わせない決断。
派手さはない。
だが、積み重なっていく。
この場所は、
強くなるために、
境界を曖昧にしない。
越えない力。
それを選び続ける限り、
名は、軽くならない。
夜風が、静かに吹き抜ける。
私は、その中心に立ち続ける。




