第74話『均衡の音──崩れないための揺れ』
採用と選別が一段落した翌日、領地は不思議な静けさに包まれていた。
嵐の後の凪に似ている。
仕事は動いている。
港も、市場も、倉庫も。
けれど、人々の動きに、どこか慎重さが混じっていた。
「張りつめてますね」
ミレーヌが、小さく言う。
「ええ」
私は書類から目を上げる。
「張りつめた糸は、
音を立てずに切れることがある」
だからこそ、その日の午後、私は“予定外”の行動を取った。
「視察は中止します」
そう告げると、周囲が一瞬ざわつく。
「代わりに、現場に混ざる」
港の荷下ろし。
倉庫の仕分け。
市場の整理。
私は指示を出さず、
ただ一人の作業員として動いた。
「……領主様?」
驚きの声が上がる。
「今日は、レティシアでいい」
それだけ告げ、荷を持ち上げた。
重い。
だが、現実的な重さだ。
「……やりにくいな」
誰かが、正直に呟いた。
「分かるわ」
私は苦笑する。
「私もよ」
その一言で、場の空気が、ほんの少し緩んだ。
作業の合間、若い管理役が近づいてくる。
「……正直に聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「私たち、信用されてますか?」
迷いのない問いだった。
逃げない人間の目。
私は、即答しなかった。
代わりに、周囲を見る。
汗を流す人。
声を掛け合う人。
黙々と手を動かす人。
「信用は、状態じゃない」
そう前置きして、言う。
「行動の積み重ねよ」
彼は、静かに頷いた。
「じゃあ……今は?」
「途中」
その答えに、彼は少し笑った。
「悪くないですね」
夕方、屋敷に戻ると、ガイルが腕を組んで待っていた。
「やりすぎじゃねぇか?」
「必要よ」
私は靴を脱ぎながら言う。
「上が固まると、下は縮む」
「逆に、緩みすぎると?」
「崩れる」
私は顔を上げる。
「だから、揺らす」
均衡は、止まっている状態じゃない。
揺れながら、保つものだ。
夜、報告が一つ届いた。
「蒼月の翼の一部が、
完全に撤退しました」
シグルの声は、静かだった。
「理由は?」
「“入り込む隙がない”と」
私は、小さく息を吐く。
「それは……」
「強さでも、恐怖でもない」
シグルが続ける。
「構造だ」
窓の外、港の灯りが揺れる。
今日も、消えずにある。
均衡は、音を立てない。
だが、耳を澄ませば、確かに感じられる。
私はその音を聞きながら、思う。
名を掲げ、
人を選び、
構造を作った。
けれど、守るべきは“形”じゃない。
揺れても、戻れる余地。
張りつめても、呼吸できる空間。
それを失わない限り、
この場所は、簡単には崩れない。
私は、また一歩、中心に戻る。
止まらず。
崩さず。
揺れながら。




