第70話『名を問われる場所──境界線の向こう側』
朝靄の中、港に一隻の小型船が入ってきた。
派手さはない。
だが、動きに無駄がなく、入港の手続きも手慣れている。
「……来ましたか」
シグルが低く言った。
船から降りてきたのは、三人。
護衛は最小限。
だが、視線は鋭い。
「名乗りは?」
門番の問いに、先頭の男が答える。
「名は要らない。
ただ、“話を聞きに来た”とだけ伝えてくれ」
その言い方で、分かった。
この者たちは、商人でも、ただの使者でもない。
応接室に通すと、男は一礼した。
「あなたが、ここを治める者か」
「ええ」
私は頷く。
「レティシア。
この地の領主です」
男は、少しだけ目を細めた。
「……名を持つのだな」
「持たない理由は?」
「名は、縛りになる」
彼はそう言った。
「だが、あなたは縛られることを恐れていない」
探るような言葉。
私は、正面から受け止める。
「責任と、縛りは違うわ」
男は、短く笑った。
「なるほど。
では、本題に入ろう」
彼は、机の上に一枚の紙を置いた。
紋章も署名もない。
「境界線の向こうで、動きがある」
「蒼月の翼?」
「それだけではない」
男の声が低くなる。
「もっと大きな流れだ。
国ではない。
組織でもない」
「……思想?」
「欲だ」
即答だった。
「この地は、
“管理されていない価値”を持ち始めている」
私は息を整える。
「それを、どうしろと?」
「問われている」
男は言う。
「あなたが、
“どこまで名を背負う覚悟があるかを”」
沈黙。
部屋の空気が張りつめる。
「答えは、すぐでなくていい」
男は立ち上がった。
「だが、近いうちに、
あなたの名は、境界線の外でも使われる」
「……良い意味で?」
「選べるのは、今のうちだ」
三人は、静かに去っていった。
扉が閉まった後、ガイルが吐き出す。
「厄介なのが来たな」
「ええ」
私は頷く。
「でも、避けられない」
リュシアンが言う。
「名が広がれば、
影も、光も、同時に集まります」
「分かってる」
私は窓の外を見る。
港は、いつも通り動いている。
「ここはもう、
隠れて生きる場所じゃない」
シグルが静かに言った。
「名を掲げるか、
奪われるか」
私は、小さく息を吸う。
「なら──掲げる」
即答だった。
「私の名で、
この場所の在り方を示す」
それは、宣言でも、虚勢でもない。
現実を受け入れた、選択だった。
夜、港の灯りが揺れる。
その光は、遠くからでも見えるだろう。
境界線の向こうで、
誰かが、その名を口にする。
善意か。
敵意か。
それとも、計算か。
それでも構わない。
名を問われる場所に、
私は立つ。
逃げずに。
誤魔化さずに。
ここが、
私の選んだ“中心”だから。




