第64話『選ばせるという脅し──揺らぐ境界線』
密書の文言が、頭から離れなかった。
――“次は、人を選ぶ”。
それは宣戦布告でもあり、試金石でもある。
刃を振るうよりも残酷なやり方だと、私は知っていた。
「……人を選ぶ、ね」
執務室の灯りの下、私は封蝋を指でなぞる。
蒼月の翼は、こちらの動きをよく見ている。
公開、集会、透明化。
すべてを理解した上で、その逆を突いてくるつもりだ。
「レティシア様」
リュシアンが静かに入室した。
彼の手には、今朝届いた報告がある。
「離脱者が、出始めています」
胸が、きゅっと縮む。
「人数は?」
「大きくはありません。
主に、商業区と港湾部。
家族単位で、隣領へ移る動きが」
ガイルが壁際で歯噛みする。
「……噂にやられたか」
「違うわ」
私は首を振った。
「“噂”じゃない。
“恐怖”よ」
恐怖は、理屈を超える。
正しい情報を与えても、
家族を守りたいという気持ちまでは否定できない。
「追わない」
私は即座に決めた。
「引き止めもしない。
ただし、条件がある」
リュシアンが視線を上げる。
「条件、とは?」
「離れる人にも、事実を伝える。
この領地で何が起きているのか、
何が危険で、何が守られているのか」
ガイルが眉を寄せた。
「それで、余計に不安を煽らねぇか?」
「隠すより、ずっといい」
私はきっぱり言った。
「恐怖は、分からないから膨らむ。
分かって、それでも離れるなら──
それは、その人の選択よ」
その日の午後、もう一つの“選択”が突きつけられた。
「レティシア様……」
ミレーヌの声が、震えている。
「ベルトランが……消えました」
一瞬、時間が止まった。
「……いつ?」
「今朝の巡回以降、姿がありません。
倉庫にも、部屋にも……」
裏切り者。
協力者。
それでも、こちらに繋ぎ留めていた“線”。
シグルが、低く言う。
「選ばれたな」
「ええ……」
私は、深く息を吸った。
「追跡は?」
「足跡は途中で消えています。
……手引きがあったでしょう」
ガイルが拳を握る。
「くそ……!」
「いいえ」
私は彼を制した。
「これは、想定内」
想定内でなければ、耐えられない。
でも──心が痛まないわけじゃない。
「蒼月の翼は、“選ばせる”と言った。
つまり、こちらの人間を、向こうに引き込む」
「見せしめでもあるな」
「ええ」
私は、窓の外を見る。
曇り空。
重たい雲が、低く垂れ込めている。
「……でも、彼らは一つ、読み違えている」
リュシアンが静かに問う。
「何を、ですか?」
私は振り返り、三人を見る。
「“選ばせる”という行為は、
同時に“選ばれなかった側”を固める」
沈黙。
「恐怖で離れる人もいる。
でも、怒りで残る人もいる」
シグルが、わずかに口角を上げた。
「分断は、刃にも盾にもなる」
「そう。
だから──ここからは、受け身をやめる」
私は机の上の地図を広げた。
「蒼月の翼が“人”を動かすなら、
私は“場所”を動かす」
ガイルが目を細める。
「……まさか」
「ええ」
私は頷いた。
「港と市場の再編を前倒しする。
仕事を、居場所を、繋ぎ直す」
「不満も出ます」
「出るわ」
それでも、と私は続ける。
「空白を放置しない。
空白は、影の居場所になる」
夜、屋敷の廊下を歩きながら、私はふと立ち止まった。
壁に掛けられた、簡素な地図。
ここへ来たばかりの頃、
何もなかった土地。
失ったものもある。
これから、もっと失うかもしれない。
それでも。
「……選ばせる、ね」
小さく呟く。
私は、選ばない。
恐怖でも、脅しでも。
ここに残る人を、
ここで生きると決めた人を、
私は、選び続ける。
それが、領主としての私の答えだ。
雲の切れ間から、ほんの一瞬、光が差していた。




