第63話『試される信頼──小さな綻び』
静かな数日が続いた。
見張り塔への侵入以降、大きな事件は起きていない。
だが、それが逆に不気味だった。
嵐の前は、いつだって静かだ。
私は執務室で、各所から集まる報告書に目を通していた。
数字は整っている。
物流も、人の動きも、表向きは問題ない。
──表向きは。
「レティシア様」
ミレーヌが、少しだけ声を潜めて言った。
「最近……市場で、妙な噂が出回っています」
「どんな?」
「“この領地は、もうすぐ王都に睨まれて終わる”
“今のうちに出ていった方がいい”……そんな内容です」
私はペンを置いた。
「誰が言い始めたか、分かる?」
「特定の人物ではありません。
でも……同じ言い回しが多くて」
同じ言い回し。
それは、自然発生ではない。
「意図的に流されているわね」
ガイルが腕を組む。
「蒼月の翼か?」
「半分は、そうでしょうね」
私は立ち上がり、窓の外を見る。
「でも、半分は──
“揺れている人たち自身の不安”よ」
人は、恐怖を与えられると、
それを自分の言葉で広めてしまう。
それが、一番厄介だ。
その日の午後、さらに報告が入った。
「港の倉庫で、小競り合いがあった」
リュシアンの声は落ち着いていたが、内容は軽くない。
「作業員同士です。
“王都派”と“領主派”と呼ばれるような形で」
胸の奥が、ひりついた。
「怪我人は?」
「軽傷が一名。
ですが……雰囲気が、よくありません」
分断。
影が、確実に形を取り始めている。
「……集会を開くわ」
私が言うと、ガイルが驚いた顔をした。
「今か?
下手すりゃ、火に油だぞ」
「だから、今」
私ははっきり告げた。
「噂が“事実”になる前に、
私の言葉で上書きする」
夕刻、広場には再び人が集まった。
前回よりも多い。
だが、表情は硬い。
期待と、不安と、疑念。
私は台に上がり、ゆっくりと全体を見渡した。
「最近、噂が出ています」
ざわめき。
「王都に睨まれている、と。
この領地は危ない、と」
逃げない。
否定もしない。
「……一部は、事実です」
その一言で、空気が張りつめた。
「王都は、私を呼び戻そうとしています。
影の勢力も、確かに動いています」
誰かが、息を呑む音がした。
「でも」
私は続ける。
「だからといって、
この領地が“終わる”わけじゃない」
一拍。
「ここがどうなるかは、
王都でも、影でもなく──
ここにいる私たちが決める」
静まり返る広場。
「出ていくのも、残るのも、自由です。
引き止めはしません」
どよめきが起こる。
「ただし」
私は声を強めた。
「残ると決めた人を、
恐怖で縛ることも、
噂で追い出すことも、
私は許しません」
空気が、少しだけ変わった。
「信頼は、強制できない。
でも、壊すのは簡単です」
だから、と私は続ける。
「私は、事実だけを出します。
隠しません。
選ぶのは、皆です」
しばらく、誰も動かなかった。
やがて、最前列にいた女性が一歩前に出た。
「……私は、残ります」
続いて、別の男が。
「俺もだ。
少なくとも、今は」
少しずつ、声が重なっていく。
全員ではない。
でも、十分だった。
屋敷へ戻る道すがら、シグルが言った。
「危うい賭けだった」
「ええ」
私は頷く。
「でも、誤魔化したら、
もっと深く裂けてた」
彼は少しだけ、目を細めた。
「信頼を“選ばせる”領主か」
「不満?」
「いいや」
彼は小さく笑った。
「……やっぱり、面倒だ」
夜、執務室に戻ると、一通の密書が置かれていた。
差出人不明。
だが、封蝋は見覚えがある。
蒼月の翼。
中には、短い一文だけ。
――“次は、人を選ぶ”。
紙を置き、私は静かに息を吐いた。
試されている。
私の覚悟も、
この領地の絆も。
それでも、もう後退はしない。
信頼は、刃よりも脆い。
だからこそ──
守る価値がある。




