第59話『交渉の天秤──王都からの使者』
朝日が完全に昇りきる頃、屋敷の正門前に一騎の馬が止まった。
濃紺の外套、王家の紋章入りの封蝋。
遠目にも、それが“正式な使者”だと分かる装いだった。
嫌な予感は、当たる時ほど静かに胸に沈む。
「……来たわね」
私は応接室で待つことを選んだ。
逃げる理由はないし、隠れるつもりもない。
ガイルは壁際に立ち、腕を組む。
リュシアンは窓際、外の気配まで逃さない構え。
シグルは少し離れた位置で、影のように佇んでいた。
扉が開く。
「王都より参りました。
王室特使、アルベルト・ハインツと申します」
四十代半ばの男。
柔らかな笑みと、鋭すぎる目。
──交渉慣れしている。
「遠路ご苦労さまです」
私は淡々と応じ、席を示した。
アルベルトは腰を下ろすと、早速本題に入る。
「単刀直入に申し上げましょう。
王都では現在、レティシア様のお力が“必要”だという声が高まっております」
「……必要、ですか」
「ええ。
辺境の改革、民心掌握、経済の立て直し。
いずれも目覚ましい成果です」
褒め言葉に、何の温度もない。
「つきましては──
王都への“復帰”をご検討いただきたい」
その言葉が、部屋の空気を変えた。
ガイルの眉が動く。
リュシアンの視線が、わずかに鋭くなる。
私は、すぐには答えなかった。
「……それは、“命令”かしら?」
アルベルトはにこやかに首を振る。
「いえいえ。
あくまで“提案”です」
そのまま、机の上に書状を置いた。
「条件も、かなり良い。
爵位の回復、名誉の保証、そして──
元婚約者である王子殿下との関係修復も、視野に入れております」
胸の奥が、冷えた。
「関係修復……?」
「殿下も、今は深く反省しておられる。
若気の至りだった、と」
ガイルが一歩前に出かけ、
リュシアンがそれを制した。
私は、ゆっくりと息を吐く。
「……ひとつ、質問しても?」
「どうぞ」
「なぜ、今なの?」
アルベルトの笑みが、ほんの一瞬だけ固まった。
「それは……」
「影の騎士団が動いているから。
蒼月の翼が、私を消そうとしているから」
空気が凍った。
アルベルトは、すぐに取り繕う。
「物騒なお話ですな。
そのような噂、王都では──」
「把握しているでしょう?」
私は、まっすぐに見据えた。
「だから“保護”という名目で、
私を王都に戻そうとしている。
違う?」
沈黙。
その沈黙こそが、答えだった。
シグルが、静かに一歩前へ出る。
「特使殿。
王都は“安全”だと?」
アルベルトは、初めてシグルを認識したように眉を上げた。
「……あなたは?」
「名乗るほどでもない」
その銀の瞳に、アルベルトはわずかに息を詰まらせた。
私は、決断した。
「答えは、ノーです」
きっぱりと。
「私は、この領地を離れません。
ここは私が選んだ場所で、
私が守ると決めた場所です」
アルベルトは、困ったように微笑む。
「ですが……
王命に逆らう形になりますよ?」
「王命なら、正式な勅書を。
“提案”なら、拒否する自由がある」
一拍。
「それに──」
私は静かに言った。
「王都が本当に私を必要としているなら、
私を追放したことから、まず謝るべきじゃない?」
その言葉は、柔らかくて、鋭かった。
アルベルトは、言葉を失った。
やがて、深く息を吐く。
「……承りました。
本日のところは、返答として受け取ります」
彼は立ち上がり、最後にこう言った。
「ですが、王都は簡単には引きません。
どうか、お忘れなく」
使者が去り、扉が閉まる。
しばらく、誰も口を開かなかった。
最初に声を出したのは、ガイルだった。
「……面倒なことになったな」
「ええ」
私は頷く。
「でも、予想通りよ」
シグルが、窓の外を見ながら言った。
「王都は“交渉”を選んだ。
それはつまり──
まだ、力ずくに出る準備が整っていない」
リュシアンが小さく頷く。
「時間は、こちらにありますね」
私は机の上の書状を、そっと閉じた。
敵は、外にも内にも、王都にもいる。
でも──私はもう、流されない。
ここは、私の場所。
ここで、私は立つ。
その覚悟が、さらに一段、深くなったのを感じていた。




