第58話『揺れる忠誠──問いは静かに、答えは重く』
夜明け前の空は、まだ青とも黒ともつかない色をしていた。
屋敷の中は静かで、遠くで誰かが薪をくべる音だけがかすかに響いている。
私は一睡もできないまま、執務室の椅子に腰掛けていた。
机の上に広げた地図と帳簿は、もう何度も見返しているのに、答えは出ない。
ベルトラン。
長年、倉庫を守ってきた男。
彼が“内側の者”だとは、まだ決まったわけじゃない。
……でも、疑いの芽は、もう摘めないほど育ってしまっている。
「レティシア様」
控えめなノックのあと、ミレーヌが顔を出した。
いつもより少し、表情が硬い。
「朝の準備が整いました。
それと……ベルトランが、今朝も普段通り倉庫に入っています」
「そう……」
つまり、逃げていない。
それが意味するのは、無実か、あるいは──。
「ミレーヌ。
今日は、私が倉庫の視察に行くわ」
彼女がはっと目を見開く。
「で、ですが……危険では……」
「だからこそよ。
彼の“反応”を、直接見たい」
ミレーヌは一瞬迷ったあと、深く頷いた。
「……分かりました。
すぐにガイル様とリュシアン様に伝えます」
倉庫へ向かう道は、朝靄に包まれていた。
湿った空気が肺に入り、頭が冴えていく。
ガイルは私の半歩前を歩き、リュシアンは少し距離を取って後方を警戒している。
誰も多くを語らない。
南倉庫の扉は、いつも通り静かに開いていた。
中に入ると、木箱の間で一人の男が作業していた。
背中は少し丸まり、動きは慎重で、いつもと変わらない。
「……ベルトラン」
私が声をかけると、彼はびくりと肩を震わせ、振り返った。
「ひ、姫様……!
これはこれは……朝早くから、どうなさいましたか」
その声は、少しだけ上ずっている。
「最近、倉庫の管理が増えているでしょう?
直接、様子を見ておこうと思って」
私はあえて、穏やかな口調を保った。
ベルトランは何度も頷く。
「はい、はい……何も問題は……」
「そう?」
私は彼の目を見つめた。
「三日前の夜。
あなたは、ここにいましたか?」
空気が、ぴたりと止まった。
ガイルの手が、わずかに剣に触れる。
リュシアンの視線が鋭くなる。
ベルトランは、しばらく黙っていた。
額に、じわりと汗が浮かぶ。
「……いました。
いつも通り、見回りを……」
「一人で?」
「……ええ」
私は静かに首を傾げた。
「でも、帳簿には“二人分”の署名があるの」
その瞬間、彼の顔色が変わった。
血の気が引き、唇が震える。
「そ、それは……!」
「間違いなら、訂正すればいい。
でも──嘘なら、話は別よ」
沈黙が、重く落ちる。
ベルトランは、ついに膝をついた。
「……申し訳、ありません」
絞り出すような声だった。
「私は……裏切るつもりは、なかった……
ただ……ただ、怖かったんです」
「何が?」
私が問うと、彼は震える声で続けた。
「王都から……使者が来ました。
“レティシア様はいずれ消える。
協力すれば、家族は守る”と……」
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「蒼月の翼……?」
「は、はい……
名前は、そう……」
ガイルが低く唸る。
「……やっぱりか」
私は一歩、彼に近づいた。
「ベルトラン。
あなたは、誰かを傷つけた?」
彼は激しく首を振った。
「い、いえ!
情報を……倉庫の動きを……
それだけを……」
その言葉が、何より重かった。
「……分かったわ」
私は背筋を伸ばす。
「あなたを、今すぐ罰することはしない」
ベルトランが、信じられないという顔で見上げる。
「で、ですが……!」
「ただし」
私ははっきり告げた。
「これからは、私の前で“すべて”を話しなさい。
命令も、合図も、接触も。
一つでも隠したら、その時は──容赦しない」
彼は床に額をつけた。
「は、はい……!
この命に代えても……!」
倉庫を出ると、朝靄が少し晴れていた。
ガイルが低い声で言う。
「甘くねぇか?」
「……そうかもしれない」
私は正直に答えた。
「でも、恐怖で縛られた忠誠は、
裏切りより厄介よ。
ここで断ち切る」
リュシアンが静かに頷いた。
「“内側”を完全に敵に回さない判断……
レティシア様らしいです」
その時、遠くから馬蹄の音が近づいてきた。
振り返ると、白いコートが朝日に映えている。
シグルだ。
「話は聞いた」
彼は短く言い、私を見る。
「君は、危うい選択をする」
「ええ。
でも──必要な選択よ」
彼は一瞬だけ目を閉じ、ふっと笑った。
「ますます、目が離せない」
影は、まだ消えない。
王都も、静かに動いている。
それでも──
この領地は、少しだけ強くなった。
裏切りを暴き、
恐怖を越え、
選び取った“信頼”によって。
私は空を見上げた。
朝日は、ちゃんと昇っている。




