第57話『静寂の裏で──動き出す“内側”』
夜が深まるにつれ、屋敷は静まり返っていった。
昼間の騒動が嘘のように、廊下には足音ひとつ響かない。
私は執務室の机に向かい、灯りを最小限に落として書類に目を通していた。
けれど、文字を追っているようで、意識は別のところにあった。
影の騎士団。
蒼月の翼。
そして──この領地の中に潜む“内側の者”。
頭では冷静に整理しようとしているのに、胸の奥がざわつく。
「……眠れそうにないわね」
独り言が、静かな部屋に溶けた。
そのとき、扉の外で控えめな足音がした。
規則正しく、慌てていない。
「レティシア様」
低く、落ち着いた声。
リュシアンだ。
「どうぞ」
扉が開き、彼は一歩だけ中へ入ってきた。
いつもの端正な表情だが、どこか張りつめている。
「巡回の途中で、気になる報告がありました」
私は背筋を伸ばす。
「聞かせて」
「南側の資材置き場で、不審な“記録の欠落”が見つかりました。
帳簿そのものは整っていますが……
三日前の夜だけ、巡回者の署名が二重になっています」
二重。
つまり──誰かが、誰かになりすました。
「名前は?」
リュシアンは一瞬だけ言葉を切った。
「……ベルトランです」
胸がきゅっと縮んだ。
ベルトラン。
古くからこの領地に仕える倉庫番。
無口だが真面目で、誰よりも早く朝に来て、誰よりも遅く帰る男。
「確認は?」
「直接問いただすのは、まだです。
今は泳がせています」
その判断に、私は小さく頷いた。
「正しいわ。
疑いが確信に変わるまでは、動かない」
リュシアンは少しだけ安堵したように息を吐いた。
「……もう一つ。
シグル殿が、港の外れで“合図用の小舟”を見つけたそうです」
「合図用……?」
「ええ。
大型船と港内の協力者を繋ぐ、中継用の舟です。
つまり──今日の刺客は“予定より早く動いた”」
胸が冷える。
「予定外の行動……焦り、かしら」
「おそらく。
内部の協力者が、計画の破綻を恐れたのでしょう」
リュシアンの視線が、まっすぐ私に向けられる。
「レティシア様。
相手は、追い詰められています」
私はゆっくりと息を吐いた。
追い詰められた敵ほど、厄介なものはない。
予測不能で、なりふり構わない。
「……ありがとう、リュシアン。
このまま、静かに監視を続けて」
「承知しました」
彼が下がろうとした、その時。
「リュシアン」
呼び止めると、彼は少し驚いたように振り返った。
「あなた自身も、気をつけて。
今日、狙われたでしょう?」
一瞬、言葉に詰まったあと、彼は微笑んだ。
「ご心配なく。
私は、守る側ですから」
その言葉に、少しだけ胸が痛んだ。
彼が去ったあと、私は椅子にもたれ、天井を見上げた。
影は確実に近い。
でも、それに怯えて立ち止まるつもりはない。
……そう思った、まさにその瞬間。
こつ。
窓の外で、何かが小さく当たる音がした。
反射的に身を強張らせ、立ち上がる。
ゆっくり近づき、カーテンを少しだけ開けた。
庭の暗がり。
月明かりの下で、誰かが立っている。
白いコート。
「……シグル」
窓を開けると、冷たい夜気が流れ込んだ。
「驚かせたかな」
彼は小さく笑い、片手を上げる。
「いいえ。
何かあったの?」
「王都からの“裏の報せ”だ」
その一言で、背筋が伸びる。
「動きがある?」
「ええ。
君の元婚約者──あの王子が、再び君の名を口にし始めた」
胸の奥が、ひやりとした。
「……どういう意味?」
シグルの銀の瞳が、月光を映して細くなる。
「王都では、“辺境の女領主を呼び戻すべきだ”
そんな声が、急に増えている」
嫌な予感が、はっきりと形になる。
「それは……」
「影の騎士団とは別の動きだ。
もっと“政治的”で、もっと厄介だよ」
私は唇を噛んだ。
外からの刃。
内側の裏切り。
そして、王都から伸びる手。
すべてが、同時に絡み合い始めている。
「……シグル」
「なにかな」
「私は、ここを離れるつもりはない」
彼は一瞬、驚いたように目を見開き、
すぐに静かに微笑んだ。
「知っている。
だからこそ、面倒なんだ」
その言葉に、思わず苦笑が漏れた。
夜は、まだ終わらない。
むしろ──本当の意味で、今始まったばかりだ。
私は窓を閉め、再び机に向かった。
次に動くのは、敵か。
それとも──私たちか。
答えは、そう遠くない。




