第54話『白い影と黒い刃──“来訪者”の名は、忘れられたはずの男』
船が港に到着する直前、空気が張りつめた。
まるで風まで息を潜めてしまったみたいに、静かすぎる。
群衆は何も言わず、ただ固まったように船を見つめていた。
がたり──。
船が岸に触れた。
ゆっくりと、白いコートの男がタラップを降りてくる。
その姿は、やけに整っていた。
武人のような肩幅なのに、しなやかな歩き方。
黒でも灰でもなく、淡く光る紺色の髪。
そして、真っすぐこちらを見る灰銀の瞳。
「……誰?」
思わず漏れた声は、風に掻き消えた。
男は一歩ずつこちらへ歩いてくる。
それに合わせて、人々が左右に道を開けた。
誰も彼に触れない。
怖れたというより──圧倒された。
空気そのものが押し返されるような存在感だった。
ガイルが剣に手を添える。
肩が微かに強張っている。
「レティシア、近づくな。
あれ……ただの貴族じゃねぇ」
「……わかってる」
けれど、目が離せなかった。
男は数歩先で立ち止まり、軽く頭を下げた。
「初めまして──と言うべきか」
声は低くて、よく通る。
けれど、どこか懐かしいような響きがあった。
「レティシア・フォン・エクレール嬢」
呼ばれた瞬間、背筋を冷たい指でなぞられたような感覚がした。
「……あなた、誰?」
「名乗りが必要だね。失礼」
彼は胸に手を当て、静かに名乗った。
「私はシグル・ヴァリオン。
“北方防衛総軍・第三戦略室”──の元室長だ」
一瞬、空気が波打ったようにざわついた。
北方防衛総軍。
この国の中でも、王に近い軍組織。
しかも“戦略室”。
そんな大物が、なぜ辺境に?
シグルは続ける。
「今は……少し事情があって、籍を離れている。
身軽な身だ。だからここへ来られた」
ガイルが低く言う。
「事情ってのは、あんたの肩書きが“元”になってる理由か?」
シグルは少しだけ目を伏せた。
けれど、その表情は沈まない。
むしろ、何かを隠しながら笑っているように見えた。
「そうなるね。
だが今日来たのは、私の話をするためじゃない」
彼の瞳が、まっすぐ私を見る。
その色は冷たい銀なのに、どこか熱を持っていた。
「レティシア嬢。
あなたの“身の安全”のために来た」
ざわっ、と周囲の空気が揺れた。
「安全……?」
私は眉をひそめる。
シグルは静かに頷いた。
「交易連盟が動いたことは知っているね。
その背後に、あなたを狙う“別の勢力”がいる」
胸が跳ねた。
「……別の勢力?」
「君はまだ知らない。
いや、知らされていないのかもしれない」
彼は一歩、近づいた。
それだけで、心臓がもう一度跳ねる。
冷たさと熱が同時に押し寄せてくる。
「そして──君の領地内に、その勢力の“協力者”が潜んでいる」
背後でガイルが舌打ちした。
「やっぱり、倉庫の影は……」
シグルはうなずき、淡々と続けた。
「彼らは、今日動くはずだった。
いや、もう動いている。
……連盟の船が“合図”だから」
全身が冷えた。
「じゃあ……リュシアンは?」
「追っている最中だろう。
彼は優秀だ。簡単にやられはしないが──急がないと危険だ」
シグルの声がわずかに険しくなる。
その瞬間だった。
がんっ!
鋭い金属音が響いた。
どこか建物の方だ。
「今の音……!」
ガイルが走り出そうとしたが、シグルが手を伸ばして止めた。
「待て。そっちじゃない」
「じゃあどこだ!」
シグルは私たちを振り返らずに言った。
「──“高台の裏”だ。
君の側近を狙っている」
息が止まった。
高台の裏。
そこには──、
「ミレーヌが……!」
私は駆け出した。
ガイルも後ろから追う。
シグルは無言でついてくる。
高台の裏手。
薄暗い影の中で、誰かの気配がぶつかる音がした。
「──っ、離れなさい!」
ミレーヌの声。
その直後、ひゅん、と風を裂く音。
そして──
金属のぶつかる音が弾けた。
駆けつけた瞬間、目に飛び込んだ光景は──
黒いフードの男がミレーヌに刃を向けている姿。
そして、その刃を受け止めているもうひとつの影。
リュシアンだ。
「っ……!」
彼の呼吸は荒い。
けれど、目は鋭いまま。
黒いフードの男は、私たちに気づき、舌打ちした。
「……間に合ったか。ちっ」
ミレーヌの肩が震える。
彼女は手に小さな採寸用ナイフしか持っていない。
完全に劣勢だ。
リュシアンが叫ぶ。
「レティシア! 下がれ!」
だが──
黒い男の動きが、異常だった。
まるで影が跳ねるように、ぶわっと私の方へ向かってきた。
ガイルより速い。
風より速い。
刃が光る。
「レティシア──ッ!」
ガイルが叫び、私をかばいに走る。
でもその瞬間──
男の腕を掴む白い手が、音もなく差し込まれた。
シグルだ。
その指が触れた途端、まるで時間が止まったように男が硬直した。
「……悪いが、ここで終わりだ」
シグルの声は冷たかった。
銀の瞳は何の感情もない。
そして、彼は男の手から刃をもぎ取るようにして地面へ叩きつけた。
男が膝を折る。
私たち全員が息を呑んだ。
「っ……く……!
貴様……“シグル”……!」
黒フードの男が震える声で名前を吐き捨てた。
シグルは眉ひとつ動かさず、囁くように言う。
「あなたの主に伝えろ。
──レティシア嬢は、渡さない」
風が吹き抜ける。
それは、宣戦布告のようだった。
ガイルが震えた声で私に言う。
「レティシア……
この男……“ただの来訪者”じゃねぇぞ」
そして私は、確信してしまった。
この瞬間を境に、
私の領地も、私自身も──
大きく、引き返せない流れに入ったのだと。
シグルがこちらに向き直り、静かに微笑んだ。
「さぁ、レティシア嬢。
話したいことが山ほどある。
場所を変えようか」
その笑みは、優しく見えて、どこか危うかった。
まるで──
“あなたの運命は、今日から新しいページに入る”
そう告げているように。




