第53話『港に差す“白い影”──足音は静かに、熱だけが増えていく』
港へ向かう途中、空気がいつもより重かった。
人々がざわつく時の“ざわざわ”ではなくて、喉の奥に石がつっかえたみたいな重さ。
誰も声を大きく上げないのに、全員が同じ一点──白い帆を見ていた。
私は広場に出ると、すぐに高台へ上がって声を張った。
「落ち着いてください。
偵察旗が上がっただけです。
まだ危険とは限りません!」
あえて堂々とした声で言う。
人は不安になると、目の前の人間の自信を借りようとするから。
それが効いたのか、少しずつ視線がこちらに向き、かさついた空気が静まっていった。
……ただ、それは表層だけ。
内側のざわつきは消えていない。
そして何より──港の方から“冷たい気配”が近づいてくるのがわかる。
遠くから聞こえる波音。
しかし、船は波を切る音を立てていなかった。
不自然。
「まるで……滑ってるみたい」
思わずつぶやいた言葉は、誰にも届かないほど小さかった。
すると、後ろから静かな声がした。
「レティシア様……」
振り返ると、村長代理を務める中年の女性が顔をこわばらせて立っていた。
「先ほど、見張り台の者が“もう一枚”旗を確認したと……
黒い、見たことのない印だそうで……」
黒い旗。
この国では使われない。
胸がざわり、と揺れる。
「……どこに?」
「船の後方です。
何か……隊を示すような、紋章のような……」
紋章。
交易連盟なら、商人ギルドの印を使う。
でも黒い旗?
なにかが違う。
そのとき──
「レティシア!」
鋭い声が背後から飛び込んできた。
ガイルだ。
息は乱れていないのに、目だけが焦っている。
「倉庫の周りで……人影が見えた。
リュシアンを追った、誰かだ。
おそらく内部の者」
「っ……!」
息が詰まる。
やっぱり動いた。
「リュシアンは!?」
「追いかけている。だが──船が来た今、敵の合図が出てる可能性がある。
レティシア、ここから離れろ」
「離れたら、あなたたちの動きが…」
「いいから」
彼は私の肩を掴んだ。
いつもより熱く、少しだけ震えている。
「今日は何が起きてもおかしくない。
俺たちは戦える。だが……
お前だけは守りきらなきゃいけない。
わかってくれ」
見上げると、まっすぐな瞳。
眉間に寄った皺が、どれだけ焦っているかを物語っていた。
それが胸に刺さって、返事が詰まる。
けど──
「私は逃げないわ」
私は彼の手にそっと触れて、力を抜いた。
「ここは私の領地よ。
不安でいっぱいの人たちを置いて、姿を消すなんてできない」
ガイルの額に影が落ちた。
「……ほんとに、強ぇな」
吐き出すように呟く。
次の瞬間──
港の方から、悲鳴。
「し、船が止まったぞーっ!!
風、吹いてるのに!!」
どっ、と群衆が揺れた。
高台から覗くと、船は岸から少し離れた場所で、本当に“ぴたり”と止まっている。
波だけが船体に当たり、白い帆は風に揺れているのに──
船そのものは動かない。
「……魔術か?」
ガイルが低く言った。
いや、ただの魔術じゃない。
この距離からでも、船の周辺の水面だけが不自然に“凪いでいる”のが見える。
まるで力場に包まれているみたい。
そのとき、甲板の上に“ひとつの影”が立ち上がった。
白いコート。
深い紺色の髪。
あまりにも堂々とした姿。
私は息を飲んだ。
「……人?」
「いや……あれは……」
ガイルですら言葉を失う。
影はゆっくり片手を上げた。
手袋の白さが、こちらからでも見えるほど際立っている。
次の瞬間──
船の周囲の“結界のような水面”がふっと消え、
船体が波を切り、ゆっくりと前へ動き出した。
まるで、
「来たぞ」
と告げるように。
不思議なことに、影はこちらを見ていた。
距離があるはずなのに、視線だけが刺さる。
“レティシア・フォン・エクレール”
そう呼ばれた気がした。
鳥肌が走る。
影の唇が動いた。
声は届かない。
でも動きでわかった。
彼は、はっきりとこう言った。
「迎えに来た」
私の心音が一気に乱れた。
なに?
誰?
どうして──?
ガイルが剣に手をかける。
「レティシア、広場の中央から動くな。
あれは“普通の来訪者”じゃねぇ」
私は頷こうとした。
でも、胸の奥のざわつきは、別の言葉を叫んでいた。
“あれは、あなたを知っている”
船が、港へ近づいてくる。
白い影が、ゆっくりと、確実に。
そして──
その動きは、今日一日の“すべて”を繋ぎ合わせるようだった。
名簿の謎。
倉庫に潜んだ協力者。
偵察船の不自然な動き。
黒い旗。
全部、ひとつの線で繋がったような気がした。
私は自分の両手を握りしめた。
「……来たわね」
嵐の中心が、ついに目の前へ。
ガイルが一歩前に出る。
「レティシア、気を張っとけ。
今日──お前の世界がひとつ変わるかもしれねぇ」
その予感は、確かに胸を震わせるほど重かった。
そして私は、
迫りくる白い影を、ただ静かに見つめ返した。




