第52話『沈む影──二つの“動き”と、割れた心音』
市場のざわめきが少しずつ落ち着き、いつもの呼び声や木箱のきしむ音が戻った頃、私はガイルとリュシアンを伴って執務室へ戻った。
けれど、胸の奥にはさっきのリュシアンの言葉が刺さったままだ。
“名簿の中に、知っている名前があった”
その一言が、何度も脳裏で反響した。
誰?
どこから?
いつから関わっていた?
思考が渦を巻く前に、ガイルが重い声で言った。
「ひとつ、確認したい。
名簿の人間を全員呼び出して事情聴取……と言いたいところだが、今は逆効果だ。
連盟側の狙いは、疑心暗鬼。村人同士を揉めさせることだ」
私は頷いた。
「ええ。だからこそ、まずは事実をもっと集めないと」
「そうなると、南倉庫に残った痕跡の調査が必要だな」
リュシアンが腕を組んで言う。
……だが、朝の手紙。
“南倉庫には行くな”
あれは警告か、罠か。
どちらにも転ぶ。
「行くなら、こっそりだな」
ガイルが剣の留め具を外しながらポツリとつぶやいた。
けれどリュシアンは首を横に振った。
「いや、レティシアはここに残れ。
市場が落ち着いた直後だ。
また噂が立てば火がつく」
「……私だけ残れってこと?」
「そうだ」
彼は淡々とした顔をしながら、目だけがやけに真剣だった。
それが少しだけ胸に刺さる。
ガイルが言葉を継いだ。
「リュシアンは倉庫の痕跡を調べる。俺は周辺の道を塞いで、接近する者を見張る。
レティシアは村の中心で“安定”を保ってくれ。
今のあんたの声が、村人にとって一番の盾だから」
私は静かに息を吐いた。
ふたりの言いたいことはわかる。
でも、気持ちは追いつかない。
その沈黙を破るように、外で足音が駆けてきた。
「レティシア様! 急報です!」
扉を開けて飛び込んできたのは、若い警備兵だった。
肩で息をし、顔はほとんど真っ青だ。
「港の監視台から……暗号旗が上がりました!
“船影”確認、とのことです!!」
空気が凍りついた。
ガイルがすぐ立ち上がる。
「数は?」
「ひとつです! でも……航路が変です!
いつもの海流を完全に無視して、まるで……“真っすぐこっちへ”!」
まっすぐ──この村へ。
「連盟か……」
リュシアンの声が低く落ちた。
そして続ける。
「ひとつだけってのが不気味だ。
表向きは“偵察船”、裏の狙いは別にある。
……多分、名簿に載ってた“内部の協力者”と繋がる」
私の胸の鼓動が跳ねた。
「まさか、船が来るタイミングで中の誰かが……動く?」
「動く。間違いなく」
ガイルが断言する。
外では人々の視線が港の方向へ吸い寄せられ、ざわざわと波打ち始めていた。
一度火がつけば、噂は一気に燃え上がる。
「……まずい」
私は立ち上がった。
「レティシア」
リュシアンが呼び止める。
「今日の船は、ただの船じゃない。
“トリガー”だ。
誰かを動かすサインになってる」
その声が、不気味なほど静かだった。
「だから、絶対に一人では歩くな。
俺たちは分かれて動くが──視界から消えるな」
いつもより妙に強い声音が胸を揺らした。
私は頷き、視線を港へと向けた。
あの青い海の向こうで、白い帆がゆっくり近づいてくる。
風が逆方向から吹いているのに、帆が揺れない。
まるで風を無視しているような動き方。
ぞわりと背筋が冷える。
「……ガイル。
警備隊は配置につかせて。
不審な動きがあれば報告を最優先に。
リュシアン、倉庫の調査は急いで。
私は広場に行って、また混乱が広がらないようにする」
ふたりは短く頷いた。
そして三人は、それぞれ違う方向へ歩き出す。
違う“気配”を背負ったまま。
その時──
背後で、低く軋む音がした。
まるで、誰かが扉の外で息を殺していたような。
私は振り返ったが、廊下には誰もいない。
ただ影が一条、床に伸びていた。
「……始まったのね」
胸の鼓動が少しだけ速くなる。
まるで村全体が心臓のように脈打ち、何かを警告しているみたいだった。
今日。
確実に“誰か”が動く。
それは外から来た影か。
それとも──
中に潜んでいた影か。
私は広場へ向かいながら、自分の息がいつもより浅くなっていることに気づいた。
嵐の前触れは、
いつもこんなふうに静かだ。




