第46話『神託の館の夜──仄暗い饗宴と、掴んだ一枚の紙』
夜風が屋敷の石畳を撫でる頃、私たちは静かに準備を整えていた。三日後に開かれるという「神託の館」での密会――そこに行くのは危険を承知の賭けだが、見えないところで事を進められるよりはましだ。情報を握るのは、手の内を明かさない相手に対して唯一の盾になる。
同行は最小限にとどめた。ガイル、リュシアン、そしてエイナと私。護衛隊は城に残し、我々は夜の闇に紛れて東へ向かった。私がまとったのは地味な外套と、移動に邪魔にならない革の手袋。目立たぬこと、そして何より「場の空気」を読むことが必要だ。
神託の館は、外見からして普通の館とは違った。古い石造りに蝋燭の灯りが柔らかく揺れ、正面の扉は重厚だがひっそりと開かれていた。中に入ると、小さな中央広間を囲むように長いテーブルが二列、そこに人影が波打っていた。貴族の黒衣、商会の質素な外套、王都の役人風の恰好——顔は見えても、表情は読みづらい。場は「儀式」のように整い、語られる言葉はすべて計算された韻を踏んでいた。
入り口付近の控えめな席に私たちは身を潜めた。ガイルは私の隣で軽く合図を送り、リュシアンは既に耳を研ぎ澄ませている。エイナはそっと手にした細工道具を弄り、必要ならば鍵を扱える準備をしている。最初の数分は偵察に徹した。人々の会話の断片が耳に入る。封鎖の効を試す声、買い取り価格の話、あるいは「ルヴェールの提案にどう乗るか」といった内輪の論議。空気は重いが、決定打となる証拠はまだ見えない。
しかし、やがて場の中心にいる一人の男が声を上げる。彼は王都の有力商会の筆頭格らしく、声に存在感があり、皆がそれに耳を傾ける。
「我々が求めるのは確実な利益だ。公開の場での合意は厄介だ。だが市場は数字で動く。短期の収益を確保してから、状況をコントロールする」
その言葉には露骨な損得勘定が混じる。隣の女性が小さく息を吐き、何やら書き留めている。私は静かにメモを取るふりをしながら視線を巡らせる。文書の取り交わしは、言葉よりも紙のやり取りで行われることが多い。リュシアンが小さく鼻を鳴らす。彼の読唇は要所を掴み、エイナが暗がりで鍵の感触を確かめ始めた。
会談が更に進むと、一枚の古い封筒がテーブルの下で静かに受け渡されるのを見逃さなかった。封筒には簡単な紋と、だが視認しにくい低い印が押されている。作法上は些細なものだが、私の直感は鋭く反応する。リュシアンは軽く肘を押して囁く。
「封筒を抑えろ。そこで何かが動く」
エイナの仕事は、静かに封筒を取り出すことだった。彼女は器用に本の陰から伸ばした細い金具を操り、封筒を引き寄せる。周囲の視線は宴の流れに奪われ、我々が控えていることに誰も気づかない。封筒は薄く、だが確かな重みがある。外套の隙間に収め、私は心臓を押さえるように一瞬息を詰めた。
やがて宴が収束に向かい、筆頭格が一つの提案をする。相手領への小口支援の分配を、表向きには「慈善」と称する形で行い、受益者には後見人を付ける。だが文面の一部には明確な指示があり、「見返りとして今後の買い付けは我が商会が優先的に取得すること」とある。言葉はもっと婉曲に語られるが、意図は隠せない。相手の顔に、欲の影が濃く落ちるのを私は見逃さなかった。
我々は控えめに席を立ち、音を立てぬよう外へと出る。館の回廊を抜けたところでエイナが封筒を私に差し出す。手が震える。中には薄い羊皮紙が一枚。そこに記されたのは日付、渡すべき名、そして金額の流れを示す簡易の手順書だ。隅には小さな記号がいくつも並ぶ——その記号はリュシアンには馴染みのあるもので、彼はすぐに目を細めた。
「これは……王都側の幾つかの商会と、隣接領の数人の中間管理者へ資金を回すルートだ。公開で動かすのではなく、小口で分散させる。物資と引き換えに“支配”を緩やかに作る――まさに我々が懸念していた手口だ」
私の胸の中で冷たい感覚が走る。しかしここで感情的に動いても意味はない。証拠は掴めた。問題はどう使うかだ。リュシアンは既に次の手を考えている。
「これを公に出すためには信頼できる窓口が必要だ。我々がルヴェールとの合意を公表したのは正しかった。だがこの紙が示すのは、公開の下で密かに動く力だ。まずはこの紙の写しを王都の監査局へ送り、同時に公国へも提示する。公的な手続きと煙幕を同時に張る」
私は頷いた。行動はすぐに始まる。馬車へ戻る途中、ガイルが低く言った。
「ここで騒ぎを起こして斬りこむのは無駄だ。彼らの殻を剥がすには、内部からの協力と公開の混合が必要だ。お前のやり方で行こう」
その言葉は確かな同意の印だった。
翌朝、合意文のコピーとともに、羊皮紙の写しが慎重に公国の使節へ手渡された。公国側は露骨な反応ではなく、外交ルートを用いて王都監査局へ直接届ける方針を取った。リュシアンは、同時にいくつかの商会へ「非公開の問い」を出し、反応を観察する。相手が焦れば焦るほど、内部の割れ目は深まる。政治は力よりも、焦りで自壊することが多い。
数日後、効果は現れた。小さな商会の一つが突然に内部告発を行い、王都監査局に不審な資金の流れを報告したのだ。告発は匿名だったが、その裏の動機は明白だ――彼らは先に買い取りを受けた者が市場を独占するのを恐れ、自分たちの保身のために鍵を投げたのだ。連鎖反応が始まれば、汚れた水は表面に浮かぶ。
神託の館の夜は、我々に一枚の紙を与えた。紙は小さいが、その重さは計り知れない。公開と秘密のバランスを、今こそ慎重に保たねばならない。だが少なくとも、見えないところで「売られる」村人の背中を、我々は一枚の紙で守ったのだ。
夜、屋敷で灯を落としてから、私はその羊皮紙をもう一度だけ見た。文字は冷たく、しかし確かな証拠だ。ガイルが静かに寄り添い、手を取る。手の温もりが、今の私の決意を柔らかく支える。戦術は続く。だが今日は、静かに勝ち取った夜だった。




