第41話『祭りの序曲──市場の光と、影の足音』
春の終わりが近づき、ローデンの空は高く澄んでいた。畑の緑は厚みを増し、果樹の蕾は膨らむ。屋敷の周囲を歩けば、縫い目のように張られた溝、補強された倉庫、働く人々の笑い声が交差する。ここまで来た。そう思うには十分な風景だが、安心は必ず次の仕事を呼ぶ。
屋敷の朝はいつもに増して忙しかった。リュシアンは取引の連絡に追われ、帳簿の頁が増えるたびに眉根を寄せる。ガイルは訓練場で志願者たちの訓練を見守り、戦術の最終チェックをしている。私は朝の巡回を終え、広場へ出て市場のテントを一つ一つ確かめた。新しい出荷ラベルが穏やかに風に揺れる。品質認証の印が紙に押されているのを見ると、胸が軽くなる。
昼、アレン公国からの来訪団が到着した。代表は柔和な笑みをたたえ、商談と文化交流を兼ねた「春の市」の提案を持ってきた。公国の支援とローデンの供給能力を結びつけるため、双方で小さな催しを開き、互いの製品を紹介する――という案だ。祭りは単なる祝祭ではない。市場の活性化、外交的な存在感の提示、民心の結束。私はすぐに企画を承認した。やるべきは準備を早めること。時間は贅沢ではない。
午後、鍛冶場では見習いたちが新しいランタンフレームの試作を行っていた。エイナが細かく指導し、若者の手つきは日に日に安定してきている。メリッサは染め場で色合いの微調整を指揮し、織られた布が市場用に整う。ミカの店も、昨夜より確かな足取りで客を迎えていた。赦しと再生は、こうして日常に落ちる。
夕方に差し掛かると、私は屋敷の小さな会議室で関係者と最終確認をした。警備、物流、受け入れの順路、衛生管理、価格表示の統一。ミス一つで信頼が揺らぐ。ガイルは護衛の配置図を示し、リュシアンは商会との手綱を握る。アレンは文化交流の出し物の段取りを丁寧に説明する。やることは多く、だが誰もが責任を引き受ける覚悟を見せる。
夜、私は屋敷のテラスで書簡を確認していると、近衛の一人が眉をひそめて駆け込んできた。顔には疲労と困惑が混じる。伝えられたのは小さな事件だ――市場外の小規模な荷揚げ所で、荷物の一部が紛失したという。額面はささやかだが、今は小さな不安でも広がれば大きくなる。それを放っておけば、祭りの出だしに影響を与えかねない。
すぐに現場へ向かう。月明かりに照らされた小道を駈け、倉の影から職人たちが集まっているのを見つけた。荷台の紐が切られ、箱が散乱している。中身は加工用の染料の入った小瓶だった。誰もが顔を見合わせる。盗みか、偶発か。現場には足跡があるが、一見して巧妙な足取りだ。
リュシアンがすぐに現場を検分し、指示を出す。証拠保存、目撃者の洗い出し、出入り記録の精査。ガイルは周囲を見張りながら、私に短く言う。
「これは撹乱だ。誰かが祭りを止めさせたい」
その言葉は冷静だが、重い。私は深呼吸して、ミカと幾人かの職人を呼び、皆で箱の中身を点検する。小瓶の一部は割れており、匂いが薄く漂う。だが、手早い調査で分かったのは、被害は思ったほどではないこと。被害の一部は代替可能で、代用品で補填できる。だが問題は、心配を煽る「演出」である可能性が高いという点だ。誰かがわざと不安を生み、市場の信頼を揺るがす。それが連盟側の策略の残滓なら、ここで慌てるべきではない。
私は広場に登り、集まった人々に状況を説明した。隠すのは簡単だが、透明にする方が結果的に信頼を呼ぶ。被害の程度、代替案、今後の監視体制。言葉は短く、実務的に。年配の女が私の手を取り、静かに「ありがとう」と言った。安心は政治の中で最も強い武器だと改めて思う。
その夜、祭りの前夜祭として小さな歌会が開かれた。楽器を持つ者が輪になり、子どもたちが歌を口ずさむ。アレンは公国の民謡を披露し、リュシアンは小さな笑いを誘う冗談を言って場を和ませる。私はガイルの隣に座り、静かにその場を見守る。手をつなぐと、彼は小さな安心を返してくれる。人は結局、誰かの温もりに救われるのだ。
深夜。屋敷へ戻ると、エイナが私を呼ぶ。彼女の顔つきは興奮と困惑が混じる。小さな紙片を差し出される。それは祭りへ来る公国の使者の一人からの短い伝言だ。文面には「近隣で不穏な動きあり。注意を」という旨が書かれている。心臓がきゅっとする。封鎖、買収、撹乱――重なる影はしつこい。
翌朝、私は市場の中央で予定通り「春の市」を開いた。テントは色とりどりに並び、香ばしい匂い、染めの匂い、鉄と油の匂いが混ざる。一方で、屋外の警備は以前より厳重だ。見慣れない男たちが辺縁に立ち、目を光らせている。誰が敵かは一見して分からない。だが分かっていることは、私たちは今日を終わらせるつもりだということだった。
午前中の売れ行きは上々だ。公国の買い付けは宣言どおりに行われ、来場者の顔には満足が広がる。職人たちの誇りは戻り、商品の価値は市場の中で明確に評価される。だが午後に入ると、予期しない人物が現れた。王都の高位商人の代表だ。彼はにこやかに近づき、派手な代金を提案する。条件は巧妙で、独占ではないまでも「大口の先買い」としてローデンの供給を長期に結び付ける内容だ。見かけは好条件だが、細部に目をこらすと、価格改定の条項に「調整条」を含め、状況に応じて価格を抑える余地がある。
リュシアンがそっと私の袖を引き、低い声で言った。
「好条件は好条件だが、彼らの立場は王都の影響下にある。短期の資金は助かるが、長期で見れば弊害が出る可能性が高い」
私はじっと相手を見てから、にこやかに笑い、丁寧に断った。儲け話を断るのは勇気がいる。だがローデンの自律を守るには、舵を渡さないことが必要だ。相手の顔が一瞬だけ曇る。交易は残酷な駆け引きだが、ここで守るべきは人々の未来だ。
夕方、祭りはクライマックスへ向かう。灯りが灯り始め、音楽が高鳴る。子どもたちのはしゃぎ声、職人達の談笑。私は壇上でわずかに挨拶をし、皆で杯を交わす。安堵が顔に浮かぶ人々を見て、胸が熱くなる。
だが祭りの余韻が漂う頃、夜の縁で異変が起きた。見張りの一人が血相を変えて走り込む。北の小道で、数台の馬車が異様な速さで通ったという。彼らの旗章は見えなかったが、動きが素早い。封鎖側の残党か、それとも別の勢力か。直感がざわつく。
すぐに護衛隊が北の道へ向かう。私はガイルに指示を出し、リュシアンは情報網を稼動させる。灯りの下、息を詰めながら待つ時間は長く感じられる。やがて護衛隊が戻ってきた。報告は簡潔だ。馬車群は村の端を素通りし、追撃は間に合わなかったが、彼らは目立った干渉をせずに通り過ぎたという。狙いは分からない。だが確かなのは、これが単なる暴走ではないということだ。
夜更け、私はガイルと静かに話す。
「奴らは追っているのか、それともただ通ったのか」私が訊ねると、彼は肩をすくめる。
「分からん。ただ、今は我々が用心深くあるだけだ。準備は続ける」
寝床に入る前、私は市場の灯りを遠くに見やりながら思う。今日の勝利は人々の誇りを取り戻し、交易を一歩前へ押し出した。だが影は未だ去らない。外の世界は複雑で、力と影の動きはいつだって巧妙だ。ローデンの朝を守るために、私たちは今夜も目を開けている。
朝が来れば鍬の音が再び鳴る。春は続き、収穫へと向かう。歩みは止まらない。どんなに小さな勝利でも、それが連なればやがて道になる。灯り消えた村の輪郭に、微かな守りの光が揺れていた。




