第37話『静かなる英雄──裏方の覚悟と、最後の賭け』
朝。春の光が屋根の縁を染めるころ、屋敷にはいつになく緊張感のある空気が満ちていた。昨夜から連盟側の動揺は明確になり、王都の監査も表面化し始めた。だが、敵は追い詰められるとより危険な選択をする――ローデンはその“次”を防ぐために動かなければならない。
「状況はどう?」私は地図を前に、いつものように簡潔に訊ねる。ガイルは眉を寄せ、リュシアンは眼鏡越しに書類をめくる。アレン王子からは遠隔の報告と公国の支援継続の表明が届いている。外堀は外されつつあるが、まだ内側の亀裂は残る。
午前、まずは目に見える安心を作るために動いた。市場の入口に立ち、村人たちと直接顔を合わせる。顔を見せるだけで鎮まる不安というのは確かにある。トマスが杖をつきながら近づいてきて、ぽつりと言う。
「外がどうであれ、ここには飯がある。そこを忘れるな」
その言葉が私の胸に深く落ちる。戦は政治と戦術だけではない。腹が減ったら戦う気力は萎む。今日の最優先は「食」と「仕事の確保」だ。
昼、リュシアンから連絡が入る。「動きがある」とだけ。彼の情報網は鋭く、たいてい短い報せほど重大だ。指定された廃屋の前で待ち合わせると、暗がりからサイモンが現れる。昨夜、買付けの現場で証言してくれた古参の商人だ。彼の顔には疲労が刻まれているが、目が確かだ。
「連盟の中でもう一つ動きが出そうだ。上位の利権争いが表面化すれば、彼らは“強硬策”を選ぶ恐れがある。だが、我々に渡した情報で彼らの主要な資金の流れをさらに炙り出せる。——ただし、協力してくれる“裏方”が必要だ」
裏方――言い換えれば命懸けの伝達や密約の糾合を担う人々。だがローデンには、意外にそういう人材が揃っている。顔を上げると、そこにいたのは思わぬ者たちだった。エイナは額に油を浮かべたまま、鍛冶の手を休めず鋭く頷く。村の若い郵便夫や行商の中に、事情に精通している者が何人かいる。彼らは日常の網を逆手に取り、密かに情報を運ぶことができる。
「やるか?」リュシアンが短く言う。彼の眼にはいつもの計算と、どこか誇らしさが混じる。
彼の言葉に村の裏方たちは一斉に頷いた。表に出る盾がいるなら、裏で回す者がいる。ローデンの強さは、その両輪にある。
午後、私たちは二手に分かれる。ガイルは防衛布陣の再編と護衛団の増強を指揮し、私は裏方の動きに直接関与する。任務はシンプルだが危険だった。連盟側の資金移動を示す偽装帳簿を相手に露出させ、その反応で上位の経路を確定させる。同時に、裏方たちは各地の行商に紛れて資料を運び、必要ならば駆け引きの場で証言を引き出す。
一件目の接触は無事に終わった。エイナが鉄の箱を抱えて街外れの旧倉庫へ向かう。箱には緊急の保存食ではなく、偽の商談書類と手土産が入っている。相手は興味を示し、約束の時間に現れる。だがそこに現れたのは連盟側の懐刀ではなく、連盟内部で不満を抱えていた一領主の側近だった。箱の中身を漁る間に、若い行商の一人が小さく合図を送る。リュシアンの手先が動き、証拠のある場所に小さな罠を落とす。罠は暴力を目的としない。記録を盗み出すための注意散漫と錯覚を生むだけだ。
夜、集まった証拠が整っていく。そこには想像以上に多くの名が記されていた。資金は複数の小口を経由し、上位の幹部の個人口座へと吸い上げられている。これを公にするには法と手順が必要だが、我々にはある選択肢があった。――まずは内部で公開して動揺を生む。次に、公国の仲介を経て王都の監査に突き付ける。正面から叩けば論理で潰せる相手だ。
しかし、その夜に私は別の事態を知る。密告者の一人が屋敷に現れ、泣きながら言った。
「私、家族を守りたくて……でも、私にはもう耐えられません。もし、失敗したら彼らが被害を受けます」
胸が詰まる。裏方の仕事は、誰かの生活を賭けにすることでもある。人を使う判断には、常に責任が伴う。私は深くその若者の手を取り、静かに声を掛けた。
「我々はあなたを使うのではない。共に戦う。必要ならば我々は公的な保護を約束する」
その言葉に、その者はようやく俯いたまま小さく頷いた。私は約束を裏切らない。言葉はやがて制度へと形を変え、回復支援ファンドや匿名保護の枠組みが適用されることになる。
数日後、我々の“静かな暴露”は連盟内部に小さな地震を起こした。上位の幹部は自分たちの懐を疑い、疑心暗鬼が蔓延する。連盟は足並みを乱し、外向きの圧力は一時的に弱まった。それは我々の狙い通りの効果だった。だが政治のゲームは複雑だ。相手は次の手として「経済封鎖の強化」と「小領の軍事的圧力」というカードを切り始める兆しを見せた。
そんな折、屋敷には思わぬ便りが届く。アレンからの書簡だ。彼は短く書いている。
「君たちのやり方は正しい。だが、我々も直接的な軍事支援は出せない。よって、我が国の商業枠を使い、あなた方の産物を保証することで市場の安定化を図る。これで少しは封鎖の効果が薄れるだろう」
助けは形を変えて届いた。政治は、相手に直接衝突するよりも、資源と市場を押さえることで守る時がある。アレンの提案はまさにそれだった。私は彼の言葉に感謝を送ると同時に、裏方の労をねぎらう手紙を彼に託した。戦いは表だけでなく、縁の下で支え合う者たちによって成る。
夜遅く、屋敷のテラスでガイルが私に寄り添う。星は瞬き、風は穏やかだ。疲労はあるが、勝ちが確定したわけではない。私はそっと呟いた。
「裏方たちが、勇気を見せてくれた。彼らこそ静かな英雄だわ」
ガイルは無言で頷き、腕をしっかり回す。私の手は、その温もりでまた固くなる。
嵐はなお遠からず、だがローデンは小さな亀裂を埋め、次の一手のために体勢を整えた。
裏で動いてくれた者たちの覚悟と、表で盾になる者たちの強さが、今のローデンを支えているのだから。




