第36話『亀裂の深さ──信頼の代償と、新たな選択』
朝靄の中、屋敷の書斎の机に置かれた紙束が微かに震えているように見えた。昨夜の逮捕劇の余波で、王都の諜報が動き、連盟内では不穏な噂が飛び交っている。だがそれより厄介なのは、村の内部で芽生えた「不満」と「不安」が、目に見えない裂け目を作り始めていることだった。
「統計は出たか?」とリュシアンはいつも通りの毒舌で訊ねる。だが黒衣の顔はどこか険しい。
「物資の出入りに微かな乱れがある。表向きは小さな損失だが、頻度が増している」私は数字を指で辿りながら答えた。数は嘘をつかない。だが数字の裏にあるのは人の事情だ。
午前、私は鍛冶場や加工所、倉庫を回った。作業員たちの顔を見て回るのは、単なる現場視察ではない。目が伝えるものを確かめたかったのだ。ロルフは無口に金槌を振るっていたが、ミスが少し増えている。メリッサは手を止めずに布を織るが、薬指の爪が割れているのを見逃さない。小さな疲労は蓄積し、やがて大きな亀裂になる。
「疲れてるんじゃないか?」とガイルが、いつもより柔らかく手を置く。彼の手の重みは、ここで何よりも効く慰めだ。だが慰めだけでは補えないのが現実だ。私は一度深呼吸をして、今日回った者たちに必要な支援リストを示す。短期手当、休養枠、作業スケジュールの再編――それは小さなパッチワークのように見えて、共同体をつなぐ布になる。
午後、リュシアンが報告を持ってきた。昨夜の買付け現場の証拠は連盟の一部幹部に伝わり、彼らは内部で互いに疑心暗鬼になっている。しかしその混乱に付け入る別の影もあるらしい。――王都に近い一部商会が、この混乱を利用して「ローデン製品の大量買い付け契約」を提示し、その見返りに独占的な輸出ルートを要求してきたという。
私の眉がきゅっと寄る。独占は短期的には資金を生むが、長期的には依存と主権の損失を招く。リュシアンは「取引の条件は巧妙だ」と言い、契約書の細かい条項を指摘する。だがここで興味深いのは、提案を出してきた商会の幹部の一人――かつてローデンが支援したある若手商人の顔が、密かに混じっていたことだ。恩を返すのか、それとも利が先か。人は時に、追い詰められると選択を誤る。
夕刻、広場では公開の説明会を開いた。住民の前で私は契約書の条項を一つずつ、可能な影響も含めて噛み砕いて説明する。表情は硬いが、口調は飾らない。言葉は単純でなければならない。専門用語は信用を生まない。私はこうまとめた。
「援助はありがたい。だが自由を差し出す代償は、私たちの未来を決めるものだ。私たちは選べる権利を守る」
説明会の終盤、若い商人が私の前に出てきた。顔つきはかつてのやる気を失い、どこか影が差している。彼は震える声で言った。
「私……店の借金が膨らんで、家族が食えないんです。提案を断れない」
胸の奥が痛んだ。怒りの矛先は簡単だが、誰かを叩いても何も戻らない。私は彼を促し、裏で個別に話をすると約束した。その場では、共同支援の枠を示し、短期融資の選択肢と経営改善の研修を提示した。信頼を買うのはコストがかかる。だが信頼を捨てれば、共同体は瓦解する。
夜、屋敷の会議室で私たちは次の段を考えた。アレン王子が遠隔から助言を寄こし、公国の一部資金で「回復支援ファンド」を小口で用意する案が出た。リュシアンはそれを複利でなく限定用途に結び付け、監査と公開性を条件にすると提案する。私はその上で、「見返りに領の主権を渡さない」という一行を追加することを望んだ。アレンは快諾した。友情の形はこうして、実務の中で現れる。
翌朝、作戦の第一波が動いた。リュシアンの手配で、連盟内の中立的な領に向けた「物資見本と技術交流」の申し入れがなされ、同時に回復支援ファンドの最初の分がいくつかの商人口座に振り込まれた。目的は二つだ。ひとつは「人の逃げ場を無くす」ことで、買収の脱落を減らすこと。もうひとつは「我々が誠実に対応している証を示す」ことだ。政治は見せ方の芸術である。
午後、驚くべき知らせが届く。連盟の中枢で、内部告発が起きたという。露見した取引の一部が、上位の幹部の個人的な懐に流れていたことを示す証拠が別ルートから王都の監査に提出されたらしい。相手側は大きく動揺し、連盟の結束に再び亀裂が入る兆しだ。だが油断は禁物。敵にとっての最後の一手は「全面封鎖」か「強硬な武力行使」である。私たちはその先を見据えねばならない。
夜更け、私は屋敷の窓辺でガイルの腕の中にいた。灯りは小さく、村の輪郭が静かに眠っている。彼はただ黙って、私の頭を撫でる。その無言の強さが、何よりも私を落ち着かせる。リュシアンは書斎で地図に赤いピンを打ち、計算を続けている。アレンからの書簡は慎重だが確かな支援を示している。
亀裂は深い。だが深さと同時に、修復の余地もある。人は誤るが、誠意と制度と時間があれば戻る道がある。私たちはそのための道具を、今夜もひとつ増やすのだった。
改めて政治は血の戦いだけではなく、日常の選択が積み重なって勝利を作るということを私は思い知らされた。




