第35話『包囲網の響き──裏切りと小さな反撃』
朝焼けが畑を薄紅に染めるころ、屋敷の台所からはいつものようにパンの香りが立っていた。だが領の中心は消えない緊張でざわついている。三領連盟の包囲は重さを増し、通行止めや小競り合いが断続的に起きていた。私たちは「守る」ために働き、同時に「反撃の準備」を続けていた。
「レティシア様、来客です」マリアの声で執務が一瞬止まる。窓の外に立っていたのは、見慣れた中年の行商人ではなく、ローデンでも信頼されていた古参の商人、サイモンだった。顔に疲労が滲むが、目は隠せない焦りを帯びている。
「話がある――君だけに、直接に」彼の声は低く、震えていた。商人仲間や職人は噂で動くことが多い。だがサイモンの訪れは別だ。彼は屋敷で差し出した紙片を震える手で置き、目を合わせることを避けた。
紙には金の流れと関係者の名、そして一枚の小さな地図。そこに記されたのは、我々の物資を一手に押さえようとする連盟側の商人と、ローデン側の数名の“密かな接触”の日時だ。最初は消し込み可能な雑用のやり取りに見える。だが明らかに異常なのは、そこに我らが信頼していた名前が含まれていることだった――ある商人、ある村役人、そして一つ、私の知る者の名が。
心臓がぎゅっとなる。裏切りという言葉はいつだって生温かい。私は深呼吸してから穏やかに訊く。
「どうして私のところへ?」
彼は俯いて答えた。
「借金を抱えていて、脅されていた。断ると家族に手が及ぶと言われたんです。俺は……俺は間違った」
怒りと失望の波が胸に押し寄せるが、それで終わっては領は壊れる。私は書類を受け取り、静かに言った。
「罰することは簡単です。でも、今必要なのは回復の道筋。あなたが正直に来たことは、一歩目だ。私たちは――あなたを守りながら、根を断つ」
サイモンの目に涙が光った。彼は即座に計画を語り始めた。買収の接触場所と時間、相手の使った符牒、受け渡しの方法。情報は生々しく、我々が仕掛ける逆手の材料となる。
リュシアンはその夜、淡々と手を動かして情報を精査した。彼の黒衣の下で見え隠れする指先が、いくつもの名を結びつけていく。ガイルは外周の護衛を再配置し、私とリュシアンで「小さな反撃」のシナリオを描いた。
第一段階は「餌」。連盟側が次に大きな買い付けを行うという情報を逆に流し、小口の貨物をわざと露出させる。我々はその貨物を護衛に見せながらも、実物は別の安全な倉庫へ移す。代わりに偽の荷札と、露出した帳簿にわざと不整合を仕込む。相手はそれを検査するために手を出すだろう。手を出した瞬間、どこに資金が流れているか、誰が中抜きをしているかが露わになる。リュシアンの得意な金融のトラップだ。
第二段階。サイモンら裏切りの候補者たちには「逃げ場」を用意する。公的救済枠の一時貸与、家族への保護、職の再割当て。買収は安全を求める行為だ。その不安を取り除けば、相手は吐く。――人を買う者は「裏切り」を利用するが、裏切ることを続ける人間は「より深い恐怖」を抱える。そこを溶かす。
私は夜通し指示を出し、翌朝には村中の長老や職人代表を集め、公開の場で「もし誰かが不正に手を染めたら、私たちは守る。されど帰還は誠実な償いを求める」と告げた。公の言葉は一種の盾であり、同時に叱咤だ。人々の顔には安堵と疑念が交錯するが、声は次第に静かに強くなった。
数日後、作戦は動いた。露出させた小口貨物を狙った買付けが、夜中に行われる予定だ。リュシアンは影の中から買い付け人の動きを監視し、ガイル率いる護衛隊が指定の道を挟み、我々は現場で「証拠」を押さえる段取りを踏んだ。私は胸の中で、いつもより大きく祈る。祈りとは言葉の隙を埋める行為で、私の祈りは「暴力で済まさないでほしい」と願っていた。
夜は濃く、風は低く耳をかすめる。買付け団がやってきた。影が数人、荷を抱えてくる。ガイルの合図で護衛が道を塞ぎ、リュシアンの部下が迅速に動く。騒ぎは短いが鋭い。相手は驚き、混乱する中で証拠が露わになった。荷札は偽装されていたが、帳簿の端に微かなサインが残り、そこから上位の商会と連盟の情報が繋がる。サイモンは震えながら現場で証言した。買い手の一人は顔を真っ青にして逃げ惑う。
だがここで私が予想外の場面に出くわした。買い手の一人は、見覚えのある村役人だった。名前を聞けば、これまで何度も助けてくれた人物だ。裏切りは、こうして人の肌に近いところで起きる。怒りがこみ上げる。だが、その役人は私に目を向けると、俯き、声を震わせた。
「家族が、脅されて……借金が雪だるまのように増えた。逃げ場がなかった。私は、間違った」
その声は柔らかく、しかし深く私の胸を突く。簡単に裁くのは誰にでもできる。私は護衛に静かに命じる。誰も手を出すな。法廷で公正に裁くという手続きを踏ませるのだ。だが同時に私はその役人に向けて公衆の前で言う。
「あなたは今すぐ我々に協力して、誰が上に資金を渡しているかを話してください。話せば、赦しへの道はある」
彼は震える手で頷いた。やっと、本当の糸が手繰られ始める。
翌朝、王都の諜報筋から動きが伝わってきた。連盟側は動揺している。露見した取引が表沙汰になりうるという噂が広がり、内部の疑心暗鬼が加速しているらしい。リュシアンはいつもよりわずかに笑みを見せたが、それは喜びだけではない。彼の顔には計算と疲労が入り混じっている。情報戦は勝っても消耗する。
村の広場では、私は再び公の場で言葉を放った。顔は強く、声は穏やかに。
「ローデンは人を裁くためにここに立っているのではありません。私たちは再建し、守り、誰もが仕事に誇りを持てる社会を作るためにここにいます。間違いを犯した者には償いを求めますが、それは共同体を壊す手段ではない。救済と更生の道を示します」
その言葉に村人たちの多くが頷いた。トマスは杖を叩き、ロルフは眉をしかめ、メリッサは小さく涙ぐんだ。信頼は一度傷つくと修復は難しいが、手を差し伸べなければ再生はない。私たちは厳正に、だが温かく対処する。
夜、屋敷へ戻るとガイルが私の手をぎゅっと掴んだ。腕の中の安心が体に染みる。リュシアンが煙草をくゆらせながら言う。
「奴らは今、分断に走ってる。だが我々は、次の回で“締め”をする。準備は整った」
包囲は続く。だが包囲の輪には小さな亀裂が入った。人の心を買うことは容易いが、人の心を戻すのはもっと難しい。そこに私たちの強さがある。静かな反撃は物理的な衝突ではなく、信頼という目に見えない回路を取り戻す戦いだ。
窓の外、星が短く瞬く。嵐はまだ去らないが、我々はもう後退するつもりはない。守るべきものを胸に、レティシアは次の手を練っていた。




