第33話 『遠方の嵐──外交の綻びと、村の誇りの試練』
朝の空気はまだ冷たくて、吐く息が白い。
ローデン領は春の入口にいるはずなのに、この日の空気にはどこか緊張が混ざっていた。
「レティシア様、早馬です!」
領庁の扉が激しく開き、エイナが駆け込んでくる。彼女の眉間が珍しく深く寄っていた。手には封蝋の破れた書簡。
「王都東部の三領が、“資源供給連盟” を組むとの噂です。どうも、例の『密約』と繋がっているようで……」
ついに来たか、という思いだった。
三領は私たちとは別の路線で、王都依存の体制を望む勢力だ。
公国との協定に成功したローデン領を牽制するため、先に連携してしまおうという算段だろう。
机に広げた地図でその位置関係を見れば、嫌でもわかる。
物流線を押さえられれば、こちらの木材と加工品の動きが鈍り、春の市場での発信力が失われる。
「向こうは、“こちらの動きを止めに来ている” ってことだな」
ガイルがぼそりと呟く。その声には、静かな怒気が含まれていた。
だが、もっと気掛かりなことがあった。
エイナが追加の報告書を広げる。
「……これをどう見るか、レティシア様」
内容は簡単だった。
――三領の一つが、ローデンの職人見習い制度を“甘やかし政策”として嘲笑し、
さらに「技術者を引き抜く計画がある」という噂までばらまいているらしい。
「……誇りを踏みにじりに来た、ってことね」
私はゆっくり目を閉じた。
政策を批判されるのはいい。だが人を侮辱されるのは、話が違う。
リュシアンが低く言う。
「レティシア、これは外交と同時に“心理戦”だ。民の感情を揺らして混乱を生む。――無視すれば内部から崩れるぞ」
わかっている。
だからこそ、私は立ち上がる。
「……村に行こう。職人たちにも、見習いたちにも。噂に負ける必要がないって、直接話す」
ガイルが笑う。短く、だがどこか嬉しそうに。
「お前らしい。行くぞ」
村の中心広場。
見習いたち十数名が不安そうに集まっていた。鍛冶場の若者、織物工房の少女、木工の兄弟……あの時あれほど光っていた目が、揺れている。
「みんな。噂の件、聞いたわ」
私が一歩出ると、ざわめきが止まった。
「“甘やかし政策”って……本当なんですか?」
小さな声が震えた。少女メリッサだ。
「……違うわよ。それは“武器を持つための準備”よ」
顔を上げる子どもたち。私は続ける。
「技術ってね、ただの作業じゃない。
自分の力で稼ぎ、自分の選択で生きるための“武器”なの。
だから彼らは怖いのよ。
あなたたちが自信をつけ、ローデンが自立していくのをね」
メリッサが目を見開いた。
ガイルも腕を組みながら、どこか誇らしげに頷いている。
「『甘やかし』じゃない。『育ててる』のよ。未来に投資してるの。
それに――技術を軽く見る奴らほど、後で一番困るものよ」
リュシアンが呆れたように笑って小声で言う。
「後半は本音が出てるぞ、レティシア」
いいの。伝えたい時は正直でいい。
空気がゆっくり柔らかくなる。
若者たちは顔を上げ、鍛冶場のロルフが拳を握った。
「……俺、やめません。やめてたまるかよ!」
それが合図のように、次々と意志表明が起こった。
不安で曇っていた目が、再び火を灯し始める。
これでいい。誇りは自分たちで取り戻せる。
広場を後にすると、リュシアンが淡々と歩きながら提案してきた。
「見習い制度を揺さぶるのは想定内だ。
……反撃は、外交の“表”ではなく“裏”で行うべきだ」
「裏?」と私。
「三領のうち、ひとつは確実に“微妙な立場”にいる。王都に逆らえないが、公国の資金にも興味がある。
ここへ“誠実な小規模協力案”を流せば、連盟は内部から揺らぐ」
ガイルが振り返る。
「……つまり、相手を割るってことか」
「そうだ。正面衝突ではなく、静かな一手で。“向こうが勝手に崩れる”ように仕向ける」
リュシアンの声音は落ち着いていたが、その策は鋭い。
私は少し考えて……そして頷いた。
「やりましょう。
噂に一喜一憂するんじゃなくて、実利で勝ちに行く。
それがローデンのやり方よ」
静かな決意が胸に灯る。
風が頬を撫で、空は夕陽に染まり始めていた。
夜。
屋敷のバルコニーから見下ろす村には灯火が点々と揺れている。
ひとつひとつの光に、今日言葉を交わした顔が浮かぶ。
その数だけ、守る理由がある。
ガイルが隣に立つ。
「……風が変わり始めたな」
「ええ。嵐が来るわ」
「だが、お前は嵐に強い」
からかうような声。
私は苦笑しながら肘で軽く突く。
「強いんじゃなくて、“倒れないように工夫してるだけ”よ」
「それを強いって言うんだろ」
ガイルはまっすぐ言った。
胸の奥がじんと温かくなる。
遠方の三領で動き始めた連盟。
王都の裏の思惑。
そして、ローデンの未来。
嵐は近づいている。
でも――私たちには、育ち始めた「数百人の誇り」がある。
それは風には飛ばされない。
私はそっと目を閉じ、決意を固める。
「……行くわよ、ガイル。次の手を準備するわ」
「任せろ」
風が鳴り、夜空の星がゆっくり瞬いた。
嵐に向かうための第一歩は、静かに、しかし確かに踏み出されていた。




