第32話『春風の決断──公国の試みと、日々の守り』
春風が丘を撫でる朝。ローデン領は穏やかな喧騒を取り戻している。鶯の声、子どもたちの遠吠えのような笑い声、鍛冶の火のはぜる音。外から見るとただの田舎の朝だが、ここには一つひとつの仕事が回る秩序と、その裏にある多層の配慮がある。
私はいつものように朝の巡回を終え、短い執務をこなした後、畑の縁に腰を下ろして手帳を眺める。今日の議題は二つ。ひとつは公国側から提示された「小規模融資プログラム」の受け入れ可否。もうひとつは、里の若者を対象にした「職人見習い制度」の導入だ。
「どっちも大事だが、扱いは違う」ガイルが近くで馬具を整えながら言う。彼の声はいつだって実務的だ。
「外資は火力を上げてくれるが、火が飛べば家を焦がす。内側を育てる制度は、いきなり収益に跳ね返らないが根は深い」
その言い回しが、今回の要点を端的に示している。私たちが求めるのは、短期の利益ではなく“持続可能な自立”。この土地の暮らしを脅かさないことを前提に、外の力を活用する――そのための細かな設計が今日は試される。
午前、リュシアンがやって来て書類一式を投げるように置いた。黒衣の隙間からいつものように小さな光が漏れる。彼は公国との協議を終え、条件一覧と、資金がどのように流れるかの見取り図を作ってきた。
「条件は悪くない。だが“二年縛り”の返済スケジュールが短い。利率は低めだが、返済が早いと地域投資に回す余地が減る」リュシアンが淡々と指摘する。彼の物差しは常に金だが、今回は“人”という単位が加わっているから言葉に温度がある。
私は表を見ながら、メモを走らせる。選択肢は三つ。完全受け入れ、段階的受け入れ(条件緩和+監査枠付与)、辞退して自治基金を積み増す。どれもメリットと代償がある。ここで私が迷いを抱えすぎれば、村の不安が増す。決断は迅速かつ周到でなければならない。
「提案だ」私は一息ついて口を開く。
「段階的受け入れ。だが条件を厳格化する。返済枠は五年に伸ばし、複利ではなく定額償還。資金は“インフラ三分:教育二分”で割り当てる。さらに、資金使用はローデン協議会の承認が必要とする」
ガイルが細く笑い、リュシアンが鼻で笑うように「面白い」と言った。アレン王子の書簡が届いていたので、遠隔で承認をもらい、すぐに公国にも打診を入れる。手続きは緻密だが、私たちのそれは“透明に見えること”が何よりも重要だ。過去の教訓が、今は武器になっている。
午後は、職人見習い制度の初回説明会だ。会場は鍛冶場の隣の大窓のある作業場で、若い顔が十数名集まっていた。私はワークショップ形式で進めることにした。説明を一方的にして終わりにするのではなく、彼らの希望や不安をその場で吸い上げながら、制度の骨格を作るためだ。
「最初の一年は技能習得に集中してもらいます。二年目からは小さな歩合で仕事に入ってもらい、同時に技術移転の講師手当を支給します。学費は協議会基金から出す。失敗しても次の機会は用意する」私は具体的なスライドとプロトタイプの工程表を見せる。若者の目が真剣になる。
質疑応答は白熱した。ある青年は「親を助けたい」と言い、ある少女は「外で働くのが怖い」と訴えた。私は一人ずつ目を見て答える。制度作りは数字だけではまとまらない――声を拾い、制度に織り込むことで初めて現場は動くのだ。最後にトマス長老が粛々と立ち上がり、一言呟く。
「教えて、磨いて、守る。そいつが本当の贈り物だ」
その言葉で会場はふっと柔らかくなった。見習い制度は一枚の政策ではなく、世代を繋ぐ回路だと私は改めて確信する。
夕暮れ、屋敷へ戻ると、リュシアンがぽつりと言った。
「今日の決め方、評判は良さそうだ。だが“見えない抵抗”もある。王都の静かな動きとは別に、地元ですら変化に戸惑う者がいる」
私たちは夜の議論で、情報発信と説明責任を重ねることを確認した。新聞手配、巡回説明、現場公開日――小さなプロトコルを複数作り、いつでも説明できる態勢を整える。透明性は時に手間だが、信頼の保守コストなのだ。
夜遅く、ガイルと歩く裏道は花の匂いがまだ残り、星が薄く光る。彼は黙って私の手を取り、言った。
「お前の決め方は、いつも人の側を向いてる。力づくで進めるのとは違う。俺はそれが好きだ」
私は笑って彼の手を握り返した。戦うだけが守る術ではないということを、彼は一番理解してくれている。
数日後、公国から正式に「段階的受け入れ」の回答が来た。五年の返済枠、監査団の派遣、資金利用のトラッキングシステムの導入が条件だ。条件は私たちが求めたものにほぼ沿っていた。リュシアンは安堵のため息をつき、エイナはすでに資材調達の手配リストをめくっている。
だが喜びの直後に、ひとつの報が入る。王都の一派が、別の小領と密約を進めているという。中央は依然として動いている――私たちが“勝ち”を収めても、政治は次の盤面を用意する。これは終わりではない、常に続くゲームだ。
私は深く息をつき、窓の外に広がる田畑を見つめる。春風が苗を揺らすたびに、覚悟も揺れる。だが私は知っている。私たちの強さは、豪華な装備や大勢の兵力ではない。信頼と説明、選択の主体を守ること――日々の仕事で育んだ力だ。
「来週から説明ツアーを回ろう。村の代表と一緒に、各家を回る。数字だけでなく、顔を見て話す」私はまとめる。ガイルが軽く頷き、リュシアンは煙草の火を強めた。
外では春風が柔らかく吹き、ローデンの屋根が揺れる。決断は常に渦中にあるが、私たちは小さな歩幅で確実に進む。新しい読者にも伝えたいのは、この物語の核だ――大きな変化は、奇跡ではなく“日常の選択”の積み重ねで起きるということ。
夜、屋敷のランタンを消して寝床に入る前、私はふと思う。選んだ道は正しかったか、いつも不安になる。しかし朝になればまた鍬の音が聞こえ、誰かが笑う。その一瞬一瞬が答えだ。答えは一つではない。
だけど、私には守るべきものがある。そしてそれを守るために、私は明日も決め続ける。




