第31話『春の兆し──王都残響と、ひとつの告白』
春の陽はゆっくり戻ってきた。晩冬の冷たさが土地を離れると、土の匂いが屋敷の窓から静かに流れ込む。ローデンの畝は芽吹き、家々の煙突からは乾いた木の香りが立ち上る。馬車道には新しく敷かれた石の縁が光り、村人たちの足取りにも余裕が生まれていた。
「今年の作付け計画は、これで問題ないはずです」
私は会議室の机に広げた図面を指さし、リュシアンとエイナに微笑んだ。リュシアンは書類を短く確認し、ほんの少し唇を緩めて「いいだろう」と言った。外からは、アレン公国の技師が運んだ新しい揚水装置が小屋に取り付けられる音が聞こえる。公的な支援と地元の工夫が、綺麗に噛み合いつつあった。
だが、安心はいつもどこかで揺らぐ。王都の税改定は保留になったものの、政治は静かに息を潜め、次の一手を温めているかもしれない。だからこそ私たちは手を緩めない。領の自立に必要なのは「今日」の勝利だけではない。毎日の積み重ね、互いへの信頼、問題が起きたときの対応力だ。
その日の昼、私はガイルと畑に出て、鍬を交えながらじっくり話をした。彼は相変わらず無骨で、言葉は少ないが目はいつも正直だ。土を返すたびに、私は彼の手の感触を確かめる。守る、という言葉の重さは、彼の手が一番よく知っている。
「春の巡回ルートを少し変えよう。下の小道に新しい見張り場を作った方が、夜露の影響も少ない」
「分かった。お前が考えた通りにやる」
その通りにするだけで、村の一部は小さな安心を取り戻す。ガイルの存在が、ここでは実用的な安心を産む。私は彼に感謝しつつ、畝に苗を並べた。静かな作業の中で、心は穏やかに満ちていく。
午後、屋敷に戻るとリュシアンが珍しく真剣な顔で待っていた。彼は夕方の薄い光を背に煙草の火をつけ、そしてぽつりと言った。
「王都の後援者の一人が、個人的に会いたいと言ってきた。どうする?」
話の筋は複雑だ。王都の有力者が個別に接触してくるのは、善意である場合もあれば、下心のある場合もある。私は一度深呼吸してから答えた。
「話は聞くけれど、必ず複数で行く。透明性は、今の私たちの武器だから」
リュシアンは小さく笑って頷いた。その夜、私たちは簡単な準備だけして、会談に臨むことにした。
夕暮れ。王都からの使者の屋敷は格式を示す彫刻と灯りで飾られていた。門の前に立つと、過去の記憶が無意識に胸の中をかすめる――あの日の婚約破棄、冷たい祝宴の光景。しかし今、私の隣にはガイルとリュシアンがいる。孤独はもう、過去の道具箱のなかにしまわれていた。
接見室で待っていたのは、若くはないが威厳のある紳士だ。王都の上層に顔が利く人物で、表情は柔らかい。挨拶が終わると、紳士は丁寧に話し始めた。彼は公的な場でローデンの成功を評価しつつ、個人的な興味から「レティシアに提案がある」と切り出した。
提案は二面性を持っていた。表向きはローデンの更なる発展のための資本提供。報酬は魅力的で、短期的に領の設備の質を高められる。しかし細かい条項には、公的な承認の前に一定の取扱を「王都に委ねる」という一文が忍ばせてある。つまり、長期的な自律性の一部が奪われうる。
私は紳士の言葉をじっと聞き、胸のなかで天秤を動かした。利は確かにある。けれど代償は何か。外資を入れるときの注意点は、村の暮らしを知らない意思決定が入らないことだ。私は静かに言った。
「感謝します。ただし我々は“選択の主体”を渡せません。条件は透明性、公的な監査、そして何より地元の合意です。」
紳士は少し考え、やがて薄く微笑むと手を差し出した。
「それが君らしい。正直だ。少し厳しいが、君たちの自律を尊重しよう」
交渉は続き、結論は急がれなかった。夜、馬車で屋敷へ戻りながら、私は腹に一つの感覚を抱えていた――選択することの恐れと、その先にある責任の重さ。それらは静かに私の胸で渦を描く。
春のある穏やかな朝、村で小さな集いがあった。学校の新しい屋根の落成を祝う式で、子どもたちの歌が響く。人々の顔は明るく、笑い声が風に溶けた。私は壇上でお礼を述べ、村人一人ひとりの顔を見る。彼らが笑っていることが、何よりの報酬だ。
式が終わり、日が傾くころ——あの「告白」は、もっとも自然な形で訪れた。舞台裏で、リュシアンがぽつりと私を呼んだのだ。彼の表情はいつもと違う。冷静さの奥に揺れる何かがあり、煙草の火が小さく震えている。
「レティシア」彼は短く、しかし真剣に言った。
「俺は……お前を守るためにここまで来た。金で解決できない部分は、俺が出る。だが、それだけじゃねえ。単純に、お前の隣で飯を食うのが、俺には悪くなかった」
一瞬、時間が止まった。リュシアンの告白はぎこちなく、しかし真実の重さを持っていた。彼は金の商人であり、影のルートを一度潰してきた男だ。その過去は彼を硬くしたが、今夜の言葉は彼の柔らかさを示していた。
私は息を吸い、静かに言い返した。
「リュシアン、あなたはずっと私たちの盾であり、悪戯好きで、頑固で。あなたの言葉は重い。けれど私が選んだのはガイルです。彼は私の生活を共にする人です」
リュシアンの顔に一瞬の痛みが走る。それは避けがたい。だが彼は俯くことなく、すぐに笑ってみせた。苦い笑いだ。
「分かってる。俺は負け犬の遠吠えみてえに聞こえるかもしれねえが……それでも言いたかった」
彼の真摯さに、私の胸はじんと熱くなる。言葉は届いた。だが届いたからといって、別の道が消えるわけではない。リュシアンは短く一礼すると、背を向けて静かに去っていった。彼の背中は頼もしさと切なさを同居させている。
その夜、ガイルが私を探してきた。彼は無言で私の手を取り、腕を絡める。あたたかさが伝わり、私は深く安心した。選択はすでにしたが、それは誰かを傷つけることでもあった。だが人は幾つもの恩を受け取り、感謝を返しながら生きる。リュシアンの言葉は、そうした循環の一部として私の胸に残るだろう。
春はゆっくり、だが確実に根を張っていく。王都の残響が完全に消えたわけではない。外の紳士との交渉は続き、リュシアンの心は静かに揺れる。けれどローデンには新しい息吹があり、人々はまた日常へと戻っていく。小さな学校の屋根は雨を防ぎ、畝は緑を伸ばす。
告白はひとつの波だった。受け止められ、返され、また風に溶ける。その余韻が、町の人々の会話の端に小さな温度を残す。私はそれを大切に胸にしまい、また鍬を取りに行く。守るべきものがあるなら、選んだ道の先にある責任を果たすだけだ。
窓の外、夕陽が畝を金に染める。リュシアンの背は遠く見え、ガイルは隣で笑っている。アレンは公国へ戻る準備をしているが、頻繁に顔を出してくれるだろう。ローデンの春はまだ始まったばかりだ――私たちは歩みを止めず、次の季節へと向かっていく。




