第29話『長い冬と、種を守る手』
収穫の熱がまだ大地に残るころ、ローデン領の空はひとつ季節の境を告げていた。朝の霜が薄く畑を撫で、風は少し冷たさを孕む。外套の襟を立てて歩く人々の息が白くなるその朝、私は屋敷の大広間で冬の準備の最終確認をしていた。
「保存庫の棚はここでよろしいかと」
リュシアンが、新しく仕立てた木箱のサンプルを広げる。黒衣の裾を軽く引き、独特の落ち着きを見せながらも、その手つきは確かだ。公国の技術を取り入れた湿度調整機構が巧みに箱に組み込まれており、保存食だけでなく種子の長期保存にも適している。
「良い。だが重要なのは“管理”だ」私は書類を指差す。帳簿には誰がいつどのロットを触ったか、どの処理をしたかを明確に記録する欄が増えている。公国の監査が入るたびに改善してきた結果だ。
ガイルが隣で銃剣のように一列に並べられた袋を確かめ、黙って頷く。彼の静かな存在があるだけで、現場の緊張は和らぐ。
日常は小さな儀式のように積み重なっていく。朝は子どもたちを学校に見送り、昼は職人たちと整備の打ち合わせ、午後は保存食のサンプルチェック。夕方、鍛冶場の火を落とすと、私はいつもの風見台へ向かい、ガイルと並んで遠くの村を見渡すのが習慣になっていた。
ある晩、リュシアンが珍しく饒舌だった。黒い外套に薄い雪を乗せながら、煙草の先をくゆらせ、ぽつりと言う。
「種は面白い。金よりも価値が鮮明だからだ。なくせば立ち直れない。残すために工夫する過程は、実に人間くさい賭けだ」
彼の言葉を聞きながら、私は胸がじんと熱くなるのを感じた。種――それはただの物資ではない。次の年への希望、土地を繋ぐ約束。私たちが守るべきものは、刃でも金でもなく、土の記憶だ。
そんな折、遠方からの商隊が領内に姿を現した。見慣れない旗、織りの深い外套。公国のそれとも違う、別の都市国家のものだという。商隊の代表は名刺代わりに豪奢な箱を差し出した。中には精巧な調理器具、珍しい香辛料、染料の見本――すべては魅力的だった。代表は笑みを絶やさず、言葉は丁寧だが目的は明白だった。
「我々の商会では、ローデンの製品を大規模に買い上げ、遠方の市場に流通させたい。条件次第では、種子の前払い買い取りも検討します」
商会長の申し出は甘い蜜のように響く。資金的な余裕があれば、人々の生活は楽になる。だが取引の条件をよく聞けば、種自体を担保に長期の独占契約を設ける案まで口にしている。
私は一瞬、胸の奥に氷が張るのを感じた。外部の市場は魅力的だが、種を担保にするという提案は、過去にあれほど苦労して避けてきた構図を思い出させる。ローデンの自立を守るために、私はゆっくりと言葉を選んだ。
「ありがたい申し出です。だが我々の優先は領民の生活と、種の保全です。種は担保にも、簡単に手放すものでもありません。取引は可能ですが、条件は──」
私はリストを差し出す。地元優先の納入枠、公開帳簿の継続、種の外部譲渡は原則不可、など。商会長は眉をひそめ、一つ一つを検討し、やがて苦笑した。だが交渉のテーブルにつくことは拒まなかった。互いの条件を擦り合わせる中で、村の代表たちも自然と会話に入る。最終的に彼らは「試験的に小ロットのみを外販する」ことで落ち着き、全体の利益が一定割合で村に還元される案を示した。
我々は慎重に合意を結んだ。種を担保にしないという鉄則は守られたが、新たな市場は確かにローデンの収入を増やすだろう。外からの魅力を取り込むには、しっかりと枠組みを整える必要がある。そのためには透明な会計と、何よりも村人全体の合意が不可欠だった。
ある深夜、帳簿の山を片付けていると、ガイルがそっと肩を叩いた。彼はゆっくりと私の前に座り、言った。
「外の金は便利だ。だが、お前がいつも言うように、安易に楽をする道は危険だ。お前の判断は正しいと思う。俺はお前と一緒にいる」
その言葉に、私は答える必要がなかった。言葉よりも、その重みが私に届く。日々の選択は確かに疲れるが、側にいる者たちの信頼が支えになるのだと改めて感じた。
冬の訪れが確実になる頃、私は村の子どもたちを呼んで「種植えの物語」を聞かせる会を開いた。赤ん坊のように屈託のない目が私を見つめ、私は土の匂いや前の世代の知恵について話した。子どもたちはきらきらと目を輝かせ、やがて小さな手で種を包んだ。彼らの無邪気な希望を見ると、守るべきものの価値はますます強くなる。
その夜、灯りが消えて静まり返った屋敷に一通の急報が届く。馬車の揺れがまだ残る足跡で、使者は息を切らして私のもとに書簡を差し出した。文字は王都様式ではなく、簡潔だが重い。
「王都有力商会の動きあり。王都議会で貿易税改定が審議入り。成立すれば辺境の輸出に関税負担が増す見込み——特に外販ルートを頼る小領は影響大。即座の対応を要す」
その瞬間、私の胸に冬の風とは別の冷たさが走った。外の市場に一歩を踏み出したばかりのローデンにとって、突然の税制変更は致命的になる可能性がある。リュシアンが顔色を変え、アレンの書簡が私の手の中で震えた。ガイルは剣に手をかけたが、今回は剣では守れない問題だ。
「まずは情報の精度を上げる」リュシアンが低く言う。
「我々は公国の同盟の枠組みを使って外交圧力をかける。だがそれと同時に、輸出依存を下げる内需拡大の策を急ぐ必要がある」私は声を張る。領民の生活を守るには、外部の変動に左右されない基盤を作るしかない。
窓の外、冬の星が鋭く瞬く。冷たい空気が窓辺に張り付き、私の息を白くする。種は室にしまわれ、保存箱は鍵をかけられた。だが種を守る手は物理だけでなく、政治と経済の技術も必要とする。長い冬が来る前に、私たちは新たな盾を作らねばならないのだ。
灯りの下で、我々は深くうなだれている余裕はなかった。暖炉の火をくべ、会議を開き、書簡を綴る。冬は長いが、種はもっと長く次の世代へと続く。そのために、今私たちができることを一つずつ積み重ねる――固い決意が、夜の静けさの中でさらに強くなるのを感じた。




