第22話『新たな幕開け──家庭と領政、そして未来への約束』
春の光が村を優しく包む朝、ローデン領はいつもと変わらぬ喧噪に満ちていた。鶯の声、鍬を打つ音、子どもたちの追いかけっこの声——それらが混ざり合って、この地の一日が始まる。私は窓辺で湯気立つ茶を手に、そんな日常を静かに眺めていた。
「レティシア様、朝の巡回はいつも通りで大丈夫ですか?」
マリアが控えめに尋ねる。彼女の一挙手一投足が、今や私の執務に馴染んでいるのが嬉しかった。寝ぼけまなこの子どもや、夜通し働く鍛冶屋の顔を、私はもういちいち心配しなくてよい。そう思うと胸がふっと軽くなる。
「ええ。今日は村の雑用をいくつか回ってから、会計の打ち合わせですわ」
私は仕事着の上に簡素な外套を羽織り、屋敷を出た。後ろでガイルが黙ってついてくる。彼もまた私の毎日に溶け込み、騎士団長としてだけではなく、家族のように振る舞ってくれる存在になっていた。
午前の巡回は短く、しかし濃密だった。学校の仮教室では子どもたちが朗らかに並び、新しい教壇に興味津々で触れている。商人小屋では、リュシアンが取りまとめた輸送計画の一部が実際に動き始めており、村人たちの顔に安堵の色が広がる。倉庫では保存食の在庫管理が進み、帳簿に赤字の兆候は見えない——だが、それは私たちが気を抜いていい証ではない。
「会計のチェックは厳しく行いましょう。領の資源は限られている」ガイルが事務机に近づき、低く言う。彼の言葉には職務への責任感が滲んでいる。私は書類をめくりながら頷く。経営は政治だ。人を守るための数字は、いつだって現実を突き付ける。
午後は長めの会議が続いた。リュシアンは黒衣商会の代表として、今後の輸送ルートの安定化計画を示す。アレン王子からは定期的な交易支援の提案書が届き、双方の協力案が具体化していく。私はただ聞くだけでなく、村人の声を現場から伝えるよう努めた。トップダウンだけでなく、ボトムアップの視点を忘れない——それがローデンの強みなのだ。
「リュシアン、今回の保険枠はもう少し柔軟にできないか?」と私は問う。
彼は少し眉を寄せ、細かな数値を弾き出す。「可能だ。ただし、その分別のルートでリスクを分散する。君が現場の声を渡してくれたおかげで調整が利いたよ」
その瞬間、私の胸に小さな満足が満ちる。民を守るための一手が、また一つ整ったのだ。
夕方近く、私はガイルと屋敷裏の畑に出た。簡単な作業だ。鍬を持ち、土を掘り、小さな苗を並べる。お互いに無駄な言葉は要らない。汗の匂いと土の香りが混ざり合うその時間は、私たちにとって何にも代えがたい「現実の共有」だった。
「お前、鍬の振り方が上手くなったな」ガイルが何気なく言う。
「そんなことないですわよ。あなたが教えてくれたおかげです」私は返しながらにっこりと笑う。小さな手つきが、やがて確かな技術になるのを感じる。日々の積み重ねが、やがて領全体の力になるのだ。
夜は簡素な晩餐を囲んだ。子どもたちが作った歌が食卓を彩り、村人たちの話で笑いが絶えない。リュシアンは隣で意味深に笑い、アレン王子はやはり丁寧に礼をしながら我々を見守る。笑顔が広がるテーブルは、戦いの後に得た何よりの宝物だ。
「今日は領のために、大事な判断をありがとうございました」アレンが静かに言う。
「あなたの国の支援がなければ、ここまで来れなかったかもしれません」私も答える。外交は信頼の積み重ね。私たちは互いに負うものを確かめ合った。
数日後、思いがけない知らせが届く。王都から新たな使者——中央の監督委員の代表が来るという。形式は友好的だが、監督という名目にはやはり注意が必要だ。私はリュシアンとガイル、アレンに相談し、一定の枠組みでの受け入れを決めた。外部の目は時に厳しいが、透明性はローデンの強みでもある。
委員の代表は、中年の女性だった。彼女は事務的だが偏見がなく、村の多くを目の当たりにして言葉を詰めることなく頷いていく。子どもたちの教育、協同組合の仕組み、農地の再編と保存法——私たちの説明は真摯に受け取られ、彼女はやがて小さく微笑んだ。
「ローデンの方法には独自性がある。監督は必要だが、それを押し付けにはしない。地方の自立を尊重したい」と彼女は言った。私は安堵しつつ、同時に気を緩めてはならないと自分に言い聞かせる。中央と地方の良い協働を作るための初めての一歩が、ここにある。
季節はゆっくりと移り変わっていく。春が深まれば夏が来て、秋には初めての本格的な収穫を迎える。私たちはその一歩一歩に全力を注いだ。私は領主代理としての務めと、ガイルのパートナーとしての日常を両立させながら、ローデンの未来を紡いでいく。
ある夜、寝室の窓辺でガイルがふと呟いた。
「いつか、ここにもっと子どもが増えればいいな」
私はその言葉に軽く笑って頷いた。未来はまだ見えないが、確かに希望は膨らんでいる。家族の形は柔らかく広がり、領全体がそれを育てる環境になる日を想像する。
リュシアンは相変わらず独自のやり方でローデンを支え、アレンは公国側との窓口として強固な協力を続けてくれる。彼らの存在は、私たちの暮らしに安心を与えるだけでなく、多角的な未来設計を可能にした。
最後に私は夜空を見上げる。星々は変わらずに瞬いているが、見上げる角度が変わっただけで世界は違って見える。あの日、私は追放された。だが今、私はこの地に根を下ろし、未来を育てる立場になった。苦難もあったが、それは人や地域を強くする肥やしにもなった。
ローデンの新たな幕開けは、派手ではない。しかし確かな。それは農を耕し、子らを育て、互いの手を取り合う日々の積み重ねだ。私はこれからも毎朝、窓辺で湯気立つ茶を手に眺め続けるだろう——小さな幸せと責任を胸に、淡々と、しかし誇りを持って。
「さあ、明日も仕事ですわね」私は静かに笑う。ガイルが傍らで頷き、家の灯りが一つずつ灯っていく。
ローデンは、私たちの手でゆっくりと、しかし確実に、新しい未来へ進んでいる。




