第20話『告白の夜──選択と、二つの響き』
春の風が、いつもよりやわらかく感じられた日のことだ。
畑は順調に回復し、子どもたちの声は屋敷の窓を軽やかに叩く。ローデンは再建期の忙しさで満ちているが、その合間に、心を整理する時間もちらほらとやってくる。
私は午前中、村の修繕計画を詰めていた。会議を終えると、リュシアンがいつもの黒い外套をひるがえして書類を差し出す。彼の顔はいつになく穏やかだった。
「進捗はいい。だが、お前はちゃんと食べてるか?」
「はい、案外たくさん食べてますわよ」私は茶を一口含んで笑った。
彼はひとつ小さく笑い、いつものようにそっけない言葉で締める。だがそのそっけなさの裏にある気遣いは、何度でも胸に響いた。
午後、ガイルがやけにそわそわしていた。訓練場から戻るときの彼の足取りが落ち着かないのを、領民は誰もが気づいていた。リュシアンは鼻歌交じりに荷造りをしている。アレン王子からの手紙が届き、再び学術交流の具体日程が決まったという知らせに、私たちは短い祝杯を挙げた。
夕暮れ。屋敷の裏手、風見台のあの小さな丘に私は向かった。今日も一日の終わりをそこから見下ろしたかったからだ。赤く染まる畑、笑う子どもたち、煙突から上る温かな煙。いつも通りの景色が、今日だけは少し違って見える。心のどこかで、決めなければならないことが静かに膨らんでいた。
後ろから来る足音に気づいて振り向くと、ガイルが息を整えて立っていた。彼の鎧は外され、ただの男らしい外套を羽織っている。夕日が彼の横顔を優しく照らしていた。彼は少し間を置いてから言った。
「話がある」
私は軽く頷く。彼の手は緊張で微かに震えている。男の告白は、言葉よりもその震えが先に伝えるものがある。ガイルは深呼吸してから、真っ直ぐに私を見た。
「レティシア。お前がここに来てから、俺の心はどうしようもなく変わった。最初はただの仕事だと思ってた。守るべき領、守るべき人。しかし……お前が笑うと、俺の心が落ち着かねえ。お前を失うのが、考えただけで耐えられねえ」
彼の声は低く、だが揺れはない。言葉は粗いが、その真っ直ぐさが胸を打つ。私は黙って彼の手を取り、その温度を確かめる。掌の感触は戦いの匂いも、真剣さも、そのままだった。
「ガイル」私は静かに呼ぶ。彼の目を見つめ、ゆっくり言葉を紡ぐ。
「あなたのことは、最初から信頼していました。無骨で、不器用で、でもいつも真っ直ぐで。あなたが私を守ろうとしてくれる気持ちは、誰よりも伝わってきます」
彼は少し目を細め、口元に薄い笑みを浮かべたが、すぐに真剣な表情に戻る。
「選べ、とかそういうつもりはねえ。だが――お前がもし、俺を必要とするなら、いつでもそばにいる。お前が決めるその時まで、俺は待つ」
言葉は短い。しかしその約束の重みは大きい。私は胸がじんと熱くなるのを感じた。決して軽くない選択肢の一つが、ここに提示された。私は答えを出すべきか否か、その場で測っていた。
「ありがとう、ガイル。本当に、ありがとう」私は素直に伝えた。完璧な答えではないけれど、今の私の正直な言葉だ。ガイルはぎゅっと私の手を握り返し、そしてそっと額に触れた。彼の不器用な優しさに、私は思わず笑ってしまう。
そのとき、遠くから馬車の車輪の音が聞こえた。リュシアンだろうか、と振り向くと、黒い外套が丘の縁に現れた。彼は二人に向かって少し離れて立ち、手を腰に当てながら煙草のように見える小さな棒をくわえている。表情はいつもと変わらないが、目だけはどこか柔らかく見えた。
リュシアンはここまで来るとぽつりと呟いた。
「いい夜だな」
その一言が、どこか尋常ではない意味を帯びて聞こえた。彼は私たちの距離を一歩遠くから見て、短く息をつく。私は彼の顔色を読み取ろうとして、意識が少し揺れる。彼の溺愛は、いつも静かで確かな踏み込みを見せる。だが今夜は、彼から言葉が欲しい気がした。
丘を下りて屋敷へ向かう道すがら、リュシアンが突然立ち止まり、私の手首を掴んだ。彼の掌は冷たい。視線は真剣だ。
「レティシア」彼は低く言う。「俺は金で色々解決するやつだと思われてるが、そうじゃねえ。お前のことを守りたくて、色んな賭けをしてきた。だが……お前には選ぶ自由がある。俺はそれを奪わない」
彼の言葉は短いが重い。そこには、背後にある多くの事情と、私を守るために払われた代償が含まれているのを私は知っている。リュシアンはさらに続ける。
「だが、ひとつだけ言わせてくれ。俺はお前が誰を選ぼうと、それを受け入れる覚悟はある。だが、俺は……俺なりのやり方で、お前のそばにいる」
その言葉に、私は胸の奥がぐらりと揺れるのを感じた。ガイルの直球さ、リュシアンの不器用な誓い。二つの告白の余韻が、まるで異なる楽器の旋律のように私の中で鳴り響く。どちらも私にとってかけがえのないものだ。
その夜、屋敷の談話室で私は一人、窓の外を見つめていた。内心はぐらぐらと揺れ、答えを求める小さな声がずっと鳴っている。だが同時に確かなこともある。三人の男たちは、いずれも私を大切に思ってくれている――形は違えど、その思いの真実は同じだ。
翌朝のこと。私は机の上に置かれた小さな封筒を見つける。差出人はアレン王子。中には短い書簡が入っていた。
「昨夜の演奏会の余韻を忘れられず、あなたに一筆。私はあなたの仕事ぶりと心遣いに惹かれています。公的な約束だけでなく、個人的にもあなたを支えたい。もしよければ、今度は公国でゆっくり話をしましょう」
文字は丁寧で真摯だった。アレンは告白という直接の言葉を控えつつ、自分の気持ちと意思を静かに示してくれている。これもまた一つの「響き」だ。ガイルの剣の誓い、リュシアンの賭け、アレンの穏やかな誘い――三つの波紋が、私の前に広がる。
私は深く息をつき、手紙を胸に抱える。答えは一夜で出すものではない。だが、確かなことがある。私は誰かの所有物ではなく、私自身の意思で選ぶ――そのために、自分と向き合い、誰より誠実に答えを返すべきだ。
夕暮れ、三人はそれぞれに用事を持って屋敷を出て行った。私は窓辺に座り、ただ静かに夜を待つ。告白の二つの響きは、まだ私の胸の中で反響を続ける。やがて訪れる選択の時まで、私は自分に正直に、周りの人々に感謝して生きていこうと心に決める。
夜がやってくる。ローデンの灯りは穏やかに瞬き、星がいつも通りに空を飾る。選択の鐘は遠くで鳴り始めた。私はその音を聞きながら、静かに目を閉じる。答えはいつか、私の声で響くだろう――その日は、もう遠くはない。




