第16話『揺らぐ平穏──王都の策謀と、リュシアンの秘密』
ローデン領には穏やかな朝が戻っていた。畑には露が光り、子どもたちの歓声が遠くから届く。だが、安息の日々ほど脆いものはない――私はいつしかそう学んでいた。
「レティシア様、使者が来ています」
朝の会議を終えたところで、マリアが一通の封書を差し出す。封蝋には王都の紋章。だが、文面の口調はいつもより丁寧すぎる。読む前から、胸に小さな緊張が宿った。
——王都より、公式に協議の招集。次期領政再編に関する諮問への参加を要請する。
——書簡は格式高く、だが要旨は曖昧だ。王都は我々を“協力者”として扱うのか、あるいは別の意図があるのか。過去の出来事があるだけに、警戒は欠かせない。
「行きますか?」ガイルが訊く。彼の瞳には、いつものように守るという決意が宿っている。
「行くわ。だが、今回は一人では行かせない」私は答えた。リュシアンとガイルに同行を申し出る。二人は同時に顔を上げ、短く頷いた。
王都への道中、馬車内は言葉少なだった。アレン王子からも応援の書簡が届いており、王都での味方はゼロではない。しかし“王都の策謀”という言葉が意味するものを私たちは心得ていた。そこに潜む利害は計り知れない。
王宮に到着すると、豪華な応接室に通された。陛下の側近と数名の重臣が顔を揃えていた。形式的な挨拶の後、議題が提示される——「辺境の自治と中央の統制をどう折り合いを付けるか」。言葉は穏やかだが、核心は「誰が領を操るか」にある。
「レティシア嬢の施策は評価します。しかし……」重臣の一人が言葉を継ぐと、場の空気が少し硬くなった。「中央の管理が緩むことは、国の統制に支障をきたす。ローデンのような例が広がれば、他の領も反発を招く恐れがある」
私は冷静に応じた。
「私たちが望むのは中央の干渉ではなく、住民の自立です。安定こそが最優先です」
だが、質問の裏にあるのは「誰がその安定を担うか」という権力の問題だった。議論は紳士的に進むが、どこかで誰かが得をし、誰かが損をする。その計算が、王都の笑顔の裏側で静かに進んでいる。
会議が終わり、王の側近が私を控え室へ呼んだ。そこには、意外な人物が待っていた。黒衣商会の上層の一人、エルメス。リュシアンとは別系統の男で、冷徹かつ計算高い顔つきをしている。彼はゆっくりと椅子に腰掛け、私を見下ろすように言った。
「リュシアンのやり方は、貴女を利用した賭けだ。彼が公然と保護すれば、我々には損失が出る。だからといって彼は無謀に動いた。そこには“個人的な感情”が混じっている」
言葉は穏やかだが、含意は重い。私はリュシアンの案を支持する一方で、彼の立場が危ういことを薄々感じていた。
「ですから、申し出があります」エルメスが続ける。「黒衣商会はローデンとの関係を保ちたい。しかし、安全に運営するために、我々の提案する“共同監督”を受け入れてほしい。公的な保証のもとで、より強固な流通網を築けます」
一見もっともな提案だ。だが、私の危機感は消えない。共同監督とは、いつしか意思決定の枠を狭められるリスクでもある。アレン王子の顔が過ぎる——彼は公正さを願ったが、王都の勢力は常に揺らぎやすい。
「考えさせてください」と私は言い、部屋を出る。廊下で心を整えようとしたとき、ガイルが静かに近づいてきた。彼は私の手を取り、ぎゅっと握った。言葉はいらない。――私は、自分の決断を誤らないように考える責任があるのだ。
夜。この日の出来事が胸の奥で渦巻き、眠れないまま屋敷の庭を歩いていると、リュシアンが待っていた。彼は影の中から静かに姿を現し、軽く笑ったが、その瞳は真剣だった。
「エルメスが口出ししてきたな」リュシアンは言った。肩越しに王都でのやり取りを見据えている。
「ええ。彼の提案は巧妙です。安全に見えるが、ローデンの自立性を損ねる可能性もあります」
「だろうな。奴らは保身を最優先にする。だが、俺の方にも動きがある」
私は驚いた。どんな動きかと問いただすと、リュシアンは一息ついて話し始めた。
「実は……俺にも“消さなければならない過去”がある。黒衣商会の中で“影ルート”を断つと言ったが、そこには俺が関わった苦い出来事がある。あれを清算しないと、本当にローデンを守れない」
彼の声が低く震えた。私は初めて、リュシアンの背負うものの一端を見たような気がした。金で取引をする男だと思っていた彼が、過去の罪やしがらみを一人で抱えている。そこで私の胸は締め付けられるように痛んだ。
「何をするつもりですか?」私は問いかける。
リュシアンは短く笑って答えた。「奴らの中核にいる者たちを、法と暴露で追い詰める。だがそれより先に、君に言っておきたかった。もし俺が潰されても、君は先に進め。ローデンを守る人々はいる」
その言葉は、同時に告白にも近かった。彼は私に協力を求める前に、自ら盾になる覚悟を示したのだ。胸が熱くなる。だが同時に危険が間近だという実感が強まった。
数日後、ローデンでは小さな不穏が顕在化した。輸送の一部が遅延し、商隊の一部が強奪の危険に晒される事件が起きた。幸い人的被害は最小限で済んだが、住民の不安は広がる。私はすぐに対策会議を開き、防衛網を再編した。ガイルは夜間巡回を強化し、民兵の訓練を急がせる。リュシアンは黒衣商会の残党に目を光らせ、彼自身もリスクを負って情報を掴みに動いた。
そしてある夜、リュシアンが戻らなかった。連絡もつかない。私の胸は重く沈む。ガイルは剣を手に走り出し、村人たちと共に周囲を捜索する。私は胸が潰れそうになりながら、祈るしかなかった。
翌朝、リュシアンは血まみれで現れた。顔には疲労と痛みが刻まれ、しかし目は生きていた。彼はゆっくりとこちらに歩み寄り、肩で息を吐いて苦笑した。
「少し擦り傷が増えたくらいだ」
私は駆け寄り、彼の腕を掴んだ。彼の体温が伝わる。血の匂いが鼻をつくが、無事であることが何よりだった。リュシアンは疲れた声で言った。
「奴らの一人を突き止め、証拠を確保した。これで次に大きく動ける」
私は涙が出そうになるのを抑え、しかし強く言った。
「行きましょう。あなたが危険に晒されるなら、私たちもこの場で動く」
彼は私の目をじっと見つめ、わずかに頷いた。
「分かった。だが、やり方は慎重にな」
夜が更け、四人で開いた作戦会議は緊張に満ちていた。アレンからの支援の目処も立ち、我々は王都の腐敗核心に対して具体的手を打つ準備を進める。リュシアンの持つ証拠、ガイルの剣の迅速さ、アレンの政治的配慮、そして私の“正義”の意志——それらが一つの輪となって動き始める。
窓外に風が吹き抜ける。明日の朝には、また新しい戦いが始まるだろう。だが私は確信していた。守るべきものを見つめる限り、揺らぐ平穏はやがて固い意志となる。リュシアンの秘密が明かされたことで、危機はより現実味を帯びたが、それと同時に我々の結束も強まった。
夜明け前、私は小さく呟く。
「さあ、行きましょう。ローデンを守るために」
ガイルが剣を確かめ、リュシアンが冷静に地図を広げ、アレンの手紙が最後の確認となる。四人は静かに頷き合い、夜の闇に紛れて次の一手を踏み出していた。




