第15話『溺愛の輪郭──騎士と王子と商人、三者の距離』
ローデン領に春の光が満ち、小さな日常が戻ってきた頃――
私は屋敷の書斎で明日の行事の段取りをまとめていた。交易路の整備、学校の教員候補の面接、そして黒衣商会と共同で進める新しい輸送試験。やることは尽きないが、手を動かしていると心は落ち着いた。
「おはよう、レティシア」
窓の外から誰かの声がして、顔を上げるとそこにはアレン王子が立っていた。薄手の外套に包み、手には一つの箱を抱えている。彼は今日も淡く穏やかな笑みを浮かべていた。
「王子、今日はどうして? 先日は本当にありがとうございました」
「いや、君の提案は我が国でも好評でね。実地研修の件も急ぎ調整を進めたいと思ってきたんだ。ついでに……これは小さな礼だ」
アレンは箱を差し出した。開けると、中には薄い革の手帳と、特製の栞が入っていた。栞には小さな刻印――アレン公国の紋と、草花の刺繍が施されていた。
「ちょっとした旅の記録にでも使ってください。貴重なデータを取る君には向いていると思って」
その気配りに、私はふと胸が温かくなった。アレンの愛情は、言葉や形にして示される。派手ではないが、いつも私の立場や努力を尊重してくれる。
「ありがとう、王子。大事に使います」
「それと──これを持って来たのは、もう一つ用事がある。今夜、領の子どもたちを招いて小さな音楽会を開きたい。君にも来てほしい」
「ええ、ぜひ。子どもたちが喜ぶなら嬉しいです」
アレンはにっこりと笑い、影のように控えめに会釈して去っていった。彼の去り際、ふと振り向いて私に向けた視線が、ふだんより少しだけ長く、優しく留まったように思えた。
昼前、交易倉庫で作業をしていると、リュシアンが黒い外套を翻して現れた。彼はいつでもどこでも“仕事”の匂いを帯びているが、今日はどこか落ち着いた色合いだった。
「調達ルートの調整に来た。新しい輸送試験に黒衣商会の車隊を一隊出す。君の工程表に合わせて出発させるつもりだ」
「ありがとうございます。助かりますわ」
リュシアンはにやりと笑い、私の肩を軽く叩いた。その仕草には無骨さと親しみが混ざっている。
「ところで、君は本当に忙しそうだな」
「ええ。領民のためにやらねばならないことが山のようにあります」
リュシアンの瞳が一瞬柔らかくなった。彼の“溺愛”は静かで時にやや危険な香りがする。金で測れない価値を見出した者の執着というのだろうか。
「だが、無理はするな。君が壊れてしまっては元も子もない」
「リュシアン様まで心配するなんて、珍しいですね」
「珍しくて悪いか?」彼は真剣な顔で私を見据えた。「俺は取引相手以上のものを君から見てしまった。放っておけないんだ」
その言葉は直接的ではないが確かに深かった。彼の保護欲は、商人としての計算とは別の線で動いている。私は少し照れて笑い、すぐに話を仕事に戻した。
夕方。屋敷の中庭でガイルが騎士団員たちと訓練を行っていた。彼はいつも通り無骨で、しかし剣を握るときの眼差しは揺るがなかった。訓練が終わると彼は私の元へ歩み寄り、無造作に片手を差し出した。
「手伝え。今夜の音楽会の警備は俺がまとめる。だが、ちょっとした準備に手が足りん」
「任せてください。領民の子どもたちが楽しめるように飾り付けしましょう」
彼は小さく笑って首を振った。時折見せるその笑顔は、どこか幼さを残すようで、私の心がふっと緩む。ガイルの溺愛は真っ直ぐで、時に少し独占的だ。けれどその独占は、言葉より行動で示される。私が困ればどこからでも走ってくる――それが彼の愛のかたちだ。
「ところで、王子は今日訪ねてきたか?」とガイルが訊ねる。
「来ました。子どもたちを招くって」
その言葉に、ガイルは少し黙り込んだ。表情はわずかにこわばり、視線は遠くの畑へ向いた。
「ふん……」
短い声の裏に、確かな嫉妬が潜んでいる。私はそっとガイルの手を取り、心を落ち着けるように微笑んだ。
「ガイル、あなたがいるから、私は安心して動けるんです」
彼はぎこちなく笑い、そっと私の手を握り返した。握り方は強く、まるで“離さない”と誓うかのようだった。
夜になり、村の広場は提灯と花飾りで彩られ、子どもたちの歓声が満ちていた。アレン王子は端正な姿で小さなチェンバロを前に座り、控えめに演奏を始めた。その横でガイルは警備に目を光らせ、リュシアンは不意に現れて子どもたちにお菓子を配っている。
私は舞台裏で子どもたちに声をかけ、時折両手に抱えるほどの笑顔を受け取った。そんな中で三人がそれぞれの距離で私を見守っているのが感じられた。どの視線も色合いは違うが、どれも私を大切に思っていることが伝わる。
演奏が終わると、アレンが静かに私の方へ寄ってきた。
「あなたの領地は、本当に美しい。人々の顔を見ると救われる気がする」
「ありがとうございます。王子が来てくださったから、子どもたちも喜んでましたわ」
彼は少し恥ずかしそうに笑い、私の手に軽く触れた。その触れ方は貴族の礼儀を踏まえつつ、やさしさが滲んでいた。
一方で、ガイルは黙って二人の間を眺めている。彼の顔に一瞬、微かな陰りが差した。私はすかさずそっと彼の腕を引き寄せ、耳元で囁いた。
「大丈夫です。あなたがいるから」
彼は無言でうなずき、短くだが確かなキスのように私の掌を叩いた。無骨なその愛の示し方に、思わず笑いがこみ上げる。
そして、リュシアンが近づいてきた。彼は少し酔いが回っているらしく、普段よりも饒舌だった。
「君は面白い。三人も四人も抱えても問題ないだろう、ハハ」
「リュシアン様!」私は慌てて頭を振る。だが彼は真顔になり、ぐっとこちらを見つめた。
「冗談だ。だが一つだけ忠告しよう。あまり他人の善意をあてにするのは危険だ。だが、俺は君を裏切らない」
彼の言葉は軽くも重い。私はその重さを受け止めつつ、静かに呼吸を整えた。三人の輪郭が、ひとつの空間に柔らかく重なっていく。
夜が更け、人々が帰り、提灯の光が消えていくと、三人と私は屋敷の小さな談話室に残った。酒杯を前に、それぞれが今日の余韻を噛みしめている。
アレンがぽつりと言った。
「君には選択の余地があってほしい。だが、その選択は君自身がするものだ。俺は、君が望む未来を支えたい」
ガイルは短く、しかし真っ直ぐに言った。
「俺はただ、お前のそばにいる。選ぶだなんて能書きは言わねえ。そばにいさせてくれ」
リュシアンはゆっくりと杯を傾け、砂糖のように甘い笑みを浮かべた。
「俺は君の価値を守る。手段は荒っぽいが、結果は出す。金で解決できない部分は、俺が補う」
三人の言葉は違った色をしていた。私は深呼吸して、それぞれの手を短く取った。
「ありがとう。あなたたち三人の気持ちは、ちゃんと届いています。私の答えはまだ先のことかもしれない。でも、今は――皆が私の側にいることが何よりも大事」
三人はそろって頷き、それぞれの表情に安堵が浮かんだ。安心、独占、そして誓い。三つの愛情は重なり合い、私という一点を中心に緩やかな輪郭を描いた。
窓の外、ローデン領の夜は静かに更けていく。だが、胸の内では確かな波が立っていた。誰かを選ぶ日は来るかもしれない。だが今は、皆とともに歩む時間を大切にしたい――その気持ちが私の中心にあった。
最後に、リュシアンが低く笑って言った。
「だが、ひとつだけ覚えておけ。世の中は変わりやすい。今日の輪郭が明日も変わらないとは限らない。守るべきものを見失うな」
その言葉は警告であり、優しさでもあった。私は彼らの言葉を胸に刻み、ゆっくりと杯を空にした。
――溺愛の輪郭はまだぼんやりとしている。けれど確かなのは、この輪郭の内側で私は守られているということだ。未来はまだ白紙だが、三人の影が確かにそこにある。私はその隙間を、大切に育てていこうと決めるのだった。




